僕も思春期からずっと、友達を作るのは苦手なタイプでした。自分から誰かを誘って遊びに行く、ということは、今に至るまで一度も実行したことがない気がします。誘い方がよくわからないし、それ以上に、解散の仕方がわからないから誘えないままここまで来ました。

学生や若いうちなら、同級生や先輩、上司などの中に、我々のようなタイプを外の世界に引っ張り出してくれる「面倒見のいい人」がいました。その中から友人と呼べる存在が生まれたり、その場限りの擬似友人的な関係が成立して、僕は正直それで充分でした。

質問者さんも地元ではそんな感じだったのではないでしょうか。最近の、会社の飲み会には参加しなくていい、上司の誘いはハラスメント、みたいな風潮は、自分みたいなタイプにとってはかえって生きづらそうにも見えます。

僕の場合少し特殊だったのは、過去のあらゆるコミュニティにおいてずっと「珍獣」と看做され続けてきたことかもしれません。「あいつ変わってるけど悪いやつじゃないし」みたいな印象を獲得すると、珍獣は構ってもらいやすく、誘われやすくなります。だから僕は無意識のうちに「無害な珍獣」というスキルツリーを育ててきたような気がします。高校生時代までは、無毒化のスキルを獲得しておらず、つまり単なる有害生物だったのでなかなか苦労しましたが。

「バンド」や「飲食店(特に酒場)」というのは、この無害な珍獣スキルで擬似的友人関係を成立せしめるのに極めて向いた世界で、僕はそういう世界を選んで身を置いてきたような気もします。SNS、というかツイッターの世界なんてその極め付けみたいなもので、もはや僕はこれ以上のコミュニケーションを必要としていません。酒場にそれを求めることもなくなり、そして今に至るというわけです。

この戦略が質問者さんの参考になるかは別として、質問者さんは平日の職場で擬似的友人関係を構築することは難しいでしょうか? 

世の中ではなんとなく「親友がいることは素晴らしいことで、友達がいないのはダメな人」みたいな風潮が昔からあります。漫画や映画の世界では、やたらと親友が登場するので、余計にその価値観は刷り込まれやすい。でもそれは本当に当たり前のことなのだろうか、と僕は疑っています。

ちょっとシニカルすぎる見方かもしれませんが、世の中の自称友人関係は、擬似的友人関係にすぎないものを無理やりそういうことにしたがっているだけのようにも見えます。だから多くの人が「みんなには友達がいるのに自分には本当の友達はいない」と互いに思い込みあってクヨクヨしているんじゃないかな。

 

中島らも氏が残した名言に、こんなのがあります。

「教養とは自分一人で時間をつぶせることのできる能力である」

教養っつったって、難しく考えることはありません。趣味に没頭するということは、すなわち知らず知らずのうちに教養を深めていくことになります。

休日くらい誰にも邪魔されず趣味に没頭できるのは、むしろ幸せなことに思えます。そして趣味を極めるほどに、言い換えれば教養が深まるほどに(それが教養と呼ぶにはあまりに役立たずの知識に思えたとしても)、自ずと珍獣化は進みます。ただし珍獣はとかく体内に毒を溜め込みやすいので、無毒化のスキルは意識的に獲得することをお勧めします。単なる生存者バイアスといえばそれまでではありますが、僕はこの生き方はとってもおトクだと思っています。

4か月

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