若い人のすべてが本を読まなくなってるわけでなく、読む人と読まない人の格差が広がっているということではないかと感じています。
実際、子どもの読書量は減っていません。全国学校図書館協議会の「学校読書調査」によると、小学生は1か月分の読書量が1993年は6.4冊だったのが、2023年は12.6冊になりました。ほぼ倍増です。中学生にいたっては1.7冊から5.5冊に増えており、3倍増です。高校生は1.3冊から1.9冊と微増の横ばい。このような数字を目にすれば、おとなの読書量だけが激減しているとは考えにくいのではないでしょうか。
歴史を振り返れば、昭和のころは教養への憧れというようなものがありました。国民の9割が「自分は中流」と認識する総中流社会でこの憧れも共有され、都市でも地方でも「立派な大人になったら朝日新聞と月刊文藝春秋を定期購読」といった文化が当たり前のように受容されていたのです。だから読むにせよ読まないにせよ、みんな話題の本を争って購入した。さらには「戸建てを持ったら、応接間には世界文学全集や百科事典をずらりと並べる」という文化までありました。
だからどこの家にも、本がたくさんあったのです。昭和の中ごろに思春期を迎えた私も、そのようにして死蔵されていた本を読むことで10代の知的成長を支えてもらったのだと懐かしく思い出します。
しかしインターネットの進化と普及で、ネット上のさまざまな多様なコンテンツを楽しめるようになって、書籍の地位は低下しました。わたしは書籍の意味は今も大きいと考えていて、書籍の価値をないがしろにする気はまったくありませんが、社会全体がそういう方向に進んだのは間違いない事実です。教養への憧れはユーチューバーにとって代わられ、小説への餓えはアニメやネットフリックスのドラマで満たされるようになり、書籍の地位は低下しました。
ネットで活字をいくらでも読めるようになり、活字への餓えもなくなりました。かつての「活字中毒者」なんていうことばはすでに死語になって久しい。だから「活字中毒を癒すために本を読む」という、書籍を読むこと自体が目的化した行為はなくなり、書籍には何らかの目的(結婚したい、出世したい、ビジネスを成功させたい、健康を維持したい、ダイエットしたい)が求められるようになったのです。
これについてわたしは過去の自著でこんなことばを紹介したことがあります。「かつて書籍は目的地だった。現在、書籍は目的地ではなく、そこに至る船である」。これらの目的が別のコンテンツで満たされるのであれば、わざわざ書籍を読む必要はない。そう考えている人は多いと思います。
とはいえ、そういう時代にあっても、やはり書籍の意義を感じている人は少なくありません。書籍は世界観であり、ユーチューブやSNSでは得られない統合的で体系的な知恵を得られる貴重な場所です。そういう人たちが、いまも書籍の文化を支えている。しかしそういう人は、いまの日本社会ではそう多くありません。数万部ぐらい売れるスマッシュヒットが激減したのも、そういう時代の移り変わりと読書人口の相対的な減少が背景にあるとは言えるでしょう。