いい質問ですね! さて、ご質問の問題を考える際に気をつけなければいけないのは、
「現代は科学が明確に宗教に勝る時代である」ということです。
勝る…… 妙な言い方ですよね。ご質問の通り宗教と科学は別物ではないのでしょうか。
いいえ、少なくともかつての科学者はそうではありませんでした。
かつては科学者こそが宗教に「挑戦」し、ある種の「市場」を奪い合ったのです。
さあ、歴史を確認してみましょう。
ファラデーの『ロウソクの科学』はご存知でしょうか? 今でも科学的なものの見方を伝える名著とされていますね。
この本以外に有名なファラデーの功績がテーブル・ターニングの研究です。
テーブル・ターニングとは日本でいうこっくりさんのことで、これが霊的な現象ではなく人間の反射に由来するとファラデーはあきらかにしました。
さてここで問題です。なぜファラデーはテーブル・ターニングを検討したのでしょう。
世の中にある偽物が問題だと考えて、善意から行動したのでしょうか?
いえ、彼にはそう行動する理由と利益があったのです。
ここからはファラデーの時代の科学と宗教を語る本を手引きとして話を進めましょう。
デボラ・ブラム『幽霊を捕まえようとした科学者たち』
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784167651664
三浦清宏『近代スピリチュアリズムの歴史』
https://www.kokusho.co.jp/np/isbn/9784336073549/
さて、19世紀は科学と疑似科学、宗教(スピリチュアル)が入り混じった時代でした。
この時代の「科学」の一つとして「動物磁気」説が挙げられます。
医者メスメルが提唱したもので、磁力によって人は健康になるのだそうです。
「磁気治療」の様子。みなで鉄の腕輪をはめたり、鉄の棒を触っている。パブリックドメイン。
現代でこの「動物磁気」説はゲルマニウム等々の疑似科学に分類されるでしょう。
ですが、当時はこの判別が困難でした。現代ほど科学的知識の蓄積がない当時は、
まさしく「魔法と科学」は見分けがつかないものでした。
このような状況にあって「魔法と科学」を分けるためにファラデーは奮闘した訳ですね。
すなわち、この二つを分けるのが実験と記録、根拠であることを著書とテーブル・ターニングの検証で明らかにしたのです。
ですが、これだけで科学と宗教は分かれた訳ではありません。
19世紀、ニーチェが「神は死んだ」と語ったように、人々は人生の指針を、道しるべを求めていました。
かつては教会とキリスト教がそれを紹介した訳ですが、宗教への不信が募ってくると「代替品」が求められます。
そこで人々は科学こそ宗教に代わる「自分達を導く神話」だと考えてしまったのです。
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当時の人の心境になって考えてみましょう。
すでに書いたように宗教はいまいちだなと多くの人が考えています。
そこで人々に出されたのが降霊術やあの世との交信機などです。
あの世の話こそまさしく宗教の領分で、宗教が上手いことやってくれていれば問題はなかったのです。
しかし宗教が不人気になったので、「宗教のように科学を信じる」人が多く出てきました。
そして何より、「科学的にあの世を見る」人が本当に出てきたのです。
エジソンのあの世との交信機は有名ですが、
前掲書の『幽霊を捕まえようとした科学者たち』には「虫の知らせの統計的研究」が記録されています。
質問者さんはこれはどちらだと思いますか? 科学か宗教か。
さて、ファラデーは明解でした。こうした「宗教的な実験」を行う人間と執拗に戦い、彼らを学会から追放してしまいました。
やむなく降霊術のいんちきを研究し、虫の知らせを統計的に分析する人々は心霊現象研究協会(SPR)を作り、
「科学の外」で研究しました。
他方、彼らが用いていた手法自体は現代の科学的手法とそう変わらない実験と論理を重んじるものでした。
では手法に問題がないとしたらファラデーとSPRの人々を分けたのは何なのでしょう。
先ほどの「科学を宗教のように信じる」部分の違いなのです。
SPRの科学者達は科学によってあの世の解明(あるかないか)ということを重要なことだと考えていました。
もし科学的にあの世を解明できてば、科学こそ人々を導く指針となり、つまりはかつての宗教に取って代われるからです。
といっても彼らは宗教という「市場」を奪いたいのではなく、人々の宗教への不信、そして人生の指針の消失を憂いての行動でした。
「もし科学があの世を証明すれば、人々はかつてと同じように希望を持って生きれるに違いない」
これがSPRの指針でした。さて、これは科学なのでしょうか、宗教なのでしょうか。
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以上のように19世紀は科学と宗教が入り混じった時代でした。
ご質問にとって一番重要なのは「科学と宗教は”そもそもそういうものである”」ということではありません。
「人々は科学に宗教を求めた、科学によって宗教を改革することを求めた」のです。
本来別のものであれば、どうして同じように争ったり、改革に参加することができるでしょう。
19世紀、少なくとも科学と宗教は同じジャンルであり、科学はチャレンジャーとして宗教に挑戦したのです。
さて、こういう歴史を見るとどうでしょうね。
科学そのものと宗教そのものは違うかもしれません。
しかし「科学を信じる人」と「宗教を信じる人」はどれぐらい違うのでしょう。
「科学は明確な根拠を持ち、実験によって絶えず証明と検証が可能である」これは事実です。
しかし「これは科学的に信頼できる説なのだ」とある人が嘘を言ったとして、
それを別の人が”科学的なら信用できる”と信じたなら、それは科学的に信じたといえるのでしょうか?
こうした時、科学と宗教の境は一気に怪しくなります。
こうした問題の根本は、人間が適当なことにあります。
人間は普段いちいちそれが真に科学的か真に宗教的かを区別しません。
日常の些末なことならなおさら、その検証をかける時間と労力がありません。
すると「適当に信用する」ことが起こりますが、この時その人は科学と宗教の区別がついているのでしょうか……?
私が専門とする歴史学や宗教学が重視するのはこの視点です。
私達が触れる情報の多くは人間によって作られ、私達は人間と交流しているのです。
そして人間は「ノイズまみれ」なので、多くの物事は区別されず混同されるのです。