私がふだん書いているのは「数学的な内容を多分に含む物語」なので、一般的な「小説」とは毛色が異なるかもしれません。それはそれとして、私は「プロット細かく」と「書くにお任せ」のどちらでもないと感じます。どうしてもこの二つから選ぶのであれば、後者の「書くにお任せ」に近いかも知れませんけれど。

プロットを細かく作りこんでから肉付けをしていくような書き方をまったくしないわけではありませんが、多くの場合は二度手間になってしまいます。というのは、書いている途中でどうしても予定していたプロットとは違う方向に話が進んでいくからです。登場人物たちがAの方向に議論を進めていきたいとしているのに、私が予定していたプロットBの方に話を無理矢理に進めると、たいていは非常に不自然な物語になってしまいます。

その理由はよくわかっています。プロットを作っている時点では、私自身が書こうとする物語をまだ理解していないのです。書き進めていく(登場人物たちの話している様子に耳を傾けて、それを文章化していく)中で少しずつ物語を理解していくのが普通です。途中で「なるほど!そういうことなんだ!」と声を上げたくなることもしばしばあります。

物語がどのように進むかわかっていない状態、そもそもどういう物語ができあがるのかわからない状態で作ったプロットはあまりあてになりません。ですから、プロットに登場人物を従わせようとするならば不自然な流れになるのは当然といえます。強行にそれを推し進めるならば、複数の登場人物は姿を消してしまい、「著者」という一人の登場人物が表にどーんと出てきてしまうことになります。これは非常によろしくない状況である、と私は理解しています。

しかしながら「書くにまかせる」という表現もちょっと違うかなと思います。先ほども少し書きましたが「登場人物の話している様子に耳を傾けて、それを文章化していく」というのが私の物語の書き方にしっくり当てはまると思います。登場人物たちが話したり、あるいは行動したりします。それを私は見聞きしていて、そのようすが適切に読者に伝わるように文章化しているのです。

こんなふうにいうこともできます。実際の物語のベースになる行動やアクションやイベントは登場人物たちがすべて行う。そこは私の責任ではない。でも、文章化するところは私の責任。そんな感じです。なので、私の判断によって行動のディテールを省いたり、やりとりを簡略化することはあります。状況がよく伝わり、しかも読みやすい文章の形にするのは私の側の責任だからです。

私が自分の責任だと思っていることは他にもあります。それは舞台設定です。舞台をどのように用意するかは私が考えます。あとは登場人物たちに来てもらって、「はい、スタート!」と声を掛けるわけですね。それからときどき、わざとつまづくような場所に石を置いたり、落とし穴を置いたりするのも私の仕事です。登場人物をもっとも厳しい状況に持っていけば、彼女たちはものすごくがんばってそこからの脱出の道を見つけようとするからです。

なので、私は個人的にプロットが物語を作るのではなく、舞台(環境・状況)とキャラクタが物語を作るのだとつねづね思っています。

なお、いうまでもありませんが、以上の話は私が自分で書く物語に関して現在思っていることであって、他の書き方が悪いとか他の人の方法が間違っているとか言いたいわけではありません。

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以上のような話は、以下の講演集にも詳しく書きましたので、よろしければ。

◆数学ガールの誕生 | 結城浩

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