まず、本当においしいペペロンチーノというものは存在するのでしょうか。正しいペペロンチーノというものは存在すると思います。しかしそのイデア的なペペロンチーノははたしておいしいのでしょうか。
それがおいしいかどうかは完全に食べ手の側に委ねられます。これは「好みは人それぞれ違うから」と説明されることが多いですが、この説明だけでは不十分。今どういう気持ちで、どういうおいしさを求めているのか、その前には何を食べたのか、この後に何を食べるのか、そういった森羅万象がおいしさの判断に干渉します。
質問者さんはペペロンチーノのおいしさを禅的と表現されましたが、実に言い得て妙だと思います。どういう気持ちと心構えで味わえばおいしいのか、という点で、ペペロンチーノは最も静謐でストイックな状態、まさに禅的な境地を食べ手に求める料理だと思います。
しかし人は普段、禅的世界ではなく俗世に暮らしています。これはあくまで僕の感覚なのかもしれませんが、ペペロンチーノが禅側だとしたら、同様にシンプルなスパゲッティでも、バターとチーズだけの「アルブッロ」は俗世です。そしてここからチーズを抜いてもっと地味な食材を一種類だけ加えたものが「だけスパ」です。だけスパは禅的世界と俗世のまさにそのあわいに存在しますが、調理の精度を高めることで僅かに俗世に踏み入れることができる、それを目指したものです。
ペペロンチーノの調理の精度を高めた場合、つまりそれこそが冒頭の「イデアのペペロンチーノ」ですが、それはまだ禅的世界に踏みとどまっているのではないか、というのが僕の考えです。
蕎麦に置き換えてみましょう。ざるそばはシンプルな料理ですが、これは完全に俗世の食べ物だと思います。では蕎麦における禅的なるものは何かというと、水蕎麦や、塩だけで食べる(めんどくさい)蕎麦がそれにあたるのではないでしょうか。あくまで辛口のつゆを蕎麦の3分の1だけひたす小生は、あわいの住人、ただしギリ俗側、といったところでしょう。
ペペロンチーノ専門店というのは、言うなれば水蕎麦専門店に匹敵するものと考えます。さすがに成立不能だと思います。では一歩妥協してペペロンチーノの無限の発展性を信じて俗世側のバリエーションを増やすか。つまり蕎麦屋にカレー南蛮があるように、そこには「タコと水菜のペペロンチーノ」がある。もちろんこれもダメです。これでは単に「普通のパスタ屋のメニューが偏ったやつ」です。
客単価などの経営面まで含めて最大限現実的に考えると、コースにパスタは2皿含まれ、その1皿目は必ず素のペペロンチーノ、みたいなパターンはあり得るかもしれませんね。一口目は塩で、と釘を刺される蕎麦屋さんと同じくらい、行きたい気持ちと避けたい気持ちが錯綜します。東カレに出てきそうです。