人に依存してしまう性格を直したいです。

結城先生、こんにちは。

私はこれまでの人生で、酷いいじめに何度も遭ったり、親に人生を否定されたりと、上司からパワハラを受けたりと人に酷い目に遭わされてばかりです。

そのたびに死にたくなるほど傷つき、人が信用できなくなっていきました。

でも、何とか思いとどまって、何年もの時間をかけて少しでも傷を癒すということを繰り返して、何とか今日まで生き延びてきました。

生き延びられてきたのは、こんな私にも暖かく接してくれ、理解しようと努めてくれた人たちのおかげです。

私はこれまでに人に酷い目に遭わされてきたためか、人は私のことを人間だと思っていないと無意識下で感じてしまっているようです。

そのため、人が私を人間として扱ってくれ、人が私に向けてくれるほんの少しの好意/厚意が本当にうれしく、おそらく人の何倍もそれで舞い上がってしまいます。

ただ、このような状態で同じ人から親切にされ続けていると、私はその人に強い依存心が芽生えてしまい、少しでもネガティブなことが起きると、すぐに酷いことをされた、裏切られたという気持ちになってしまい、ひどく落ち込んでしまいます。

もちろん、裏切られたとか、酷いことをされたというのはすべて自分の勝手な思い込みや酷く歪んだ考え方であり、勝手に信じて勝手に裏切られたと思い込んでいたのかもしれないと、あとで冷静になったときに気づくことも多いです。しかし、その人への信用が強ければ強いほどずっとその思考から抜け出せず、むしろ感情的に酷いことを言ってしまったり、酷いことをしてしまいます。

私のことを理解しようと努めてくれている優しい人たちに対して、こうやって恩を仇で返してしまう自分が本当に嫌で消えたくなります。人と関わらなければ誰も傷つかないのであれば、もう生涯必要最低限の人としか会わない生活を考えた方がいいのかもしれないとも思います。

ただ、これは私が人に対して強い依存心が芽生えてしまうのが一番の原因ではないか思っており、それが解決できたらこんな歪んだ思考に陥りにくくなるのかもしれないとも思います。

長文になってごめんなさい。

結城先生の考えをお聞かせいただけたら幸いです。

結城先生のますますのご活躍期待しております。

ご質問ありがとうございます。あなたの文章を読んで私が個人的に思ったことを書いてみたいと思います。限られた文字数からの情報ですので、勘違いや的外れな部分もあると思いますがご了承ください。

まず何より、親に人生を否定されることは本当に深い傷を負うものだと思います。もちろんいじめやパワハラもそうです。心は目に見えませんが、確かに傷つきますし、欠けたり壊れたりするものです。いやされる部分もありますが、どうしても残る痛みや傷もあります。お察しいたします。

あなたが詳しく書いてくださった「あなたに好意や厚意を向けてくれる人」との関わりに関しても状況はよく理解できます。あなたと似たような状況に陥っている方は(程度の問題はありますけれど)非常に多いと想像できます。

人との関わりにおいて、その人が語った言葉や行った行動の意味を深く考えてしまい、感じ取ってしまい、その結果として反応がびっくりするほど(嬉しい方にも落ち込む方にも)大きくなってしまう状況です。

ちょっとした言葉で天にも舞い上がるほどうれしくなったり、ふとした行動で地の底にたたき落とされるほどつらくなったりする。そのような状況を乗り切っていくのはかなりたいへんであるし、現実的な苦労も多々あるはずです。

あなたが書いていらっしゃるように「人と関わらなければ」のような気持ちを抱くのも理解できます。このようなアップダウンを繰り返したり、本来なら大事にすべき(そして大事にしたいと思っている)相手に対して酷い反応を返して自己嫌悪に陥るくらいなら、人と会わない方がいいのかもと考えたくなるときもあるでしょう。

私はあなたに「こうすれば解決するよ」という回答をすることはできません。ただ「たとえば」として一つの考え方を書いてみたいと思います。

それは「自分は完全でなくてもかまわない」と思うことです。人からちょっと好意を示されたからといって舞い上がるほどうれしくなるのをやめたい……と思うかもしれませんけれど、そこを少し緩和するのです。つまり「やわらげる」わけですね。何かの拍子で天にも昇るほどうれしくなったときに「ああ、私はいつものようにうれしくなってるなあ」といったん自分を受けとめる。「こんなふうにうれしくなっちゃったら、いつものようにまたあとで大失敗するからやめなくちゃ!」と無理に思わない。無理に自分を「理想の自分」に矯正しようとしない。いったんは、自分をそのまま受けとめる。その上で「まあ、ちょっと気を付けた方がいいかもなあ」くらいに留めておく。実際に「気を付ける」ことができなくてもいいのです。「気を付けた方がいいかもなあ」と言葉にするだけでもOKです。

また別のタイミングで、いつもは親切なあの人が冷たい態度を取ったときに「どーん」と落ち込んでしまい、もうすっかり気分が暗くなってしまって、ああ、もう自分はこれじゃだめなんだ、こういうのをやめたい……と感じるかもしれません。でもそこを少し緩和します。「あーあ、まためちゃめちゃ落ち込んでるなあ、自分。これ、しばらく続くぞ。自分はこういうところ、あるからなあ」といったん自分を受けとめる。「こんなふうに落ち込んじゃだめだ、だめだ、だめだ。人に依存するんじゃなくて自立するんだ!」と無理に思わない。無理に自分を「理想の自分」に矯正しようとしない。いったんは、自分をそのまま受けとめる。その上で「そうだそうだ、考えを先走らせてあの人に酷い仕打ちをする……なんてことがないように気を付けないとなあ」くらいに留めておく。実際に「気を付ける」ことができなくてもいいのです。ワンクッション置いて、自分を受けとめて、その上でちょっとだけ意識する。

「そんなことを繰り返しても、自分はまったく改善されてないし、問題は解決してない!」と思われるかもしれません。実際のところ「完全な解決」はしていません。ただ、ほんのちょっと「緩和」するだけです。その「緩和」自体すら、うまく行かないかもしれません。でも、それでもいいのです。

自分にはどうしようもない感情というのは、簡単にどうこうすることは難しいものです。特に理詰めで完全に押し殺したり、完全に制御したりすることはできません。ですから、ワンクッション置く。まずはいったんそのまま受けとめる。完全でなくてもかまわない。同じようなことを繰り返しているかもしれないけれど、それも含めて「自分はこういうふうに感じがちだよね」と受けとめる。

それは、言い換えるなら「自分で自分を愛する」ということです。自分で自分を否定したり、自分で自分にパワハラしたりして、無理矢理自分を制御するのは得策ではありません。まずはいったん自分を丸ごと受けとめる。いったんそっと受けとめた上で、ほんのちょっとだけ、次の一歩を進めてみる。

たとえば足に怪我をして包帯を巻いている人に向かって「走れ」とはいいません。それは足に怪我をしているのが目に見えるからです。心のあり方はなかなか目に見えません。だからつい、自分の心の状態とは無関係に、自分はこうすべき・こうなるべき・こうしなくてはならない・これではいけない・こうしろ!と考えがちです。それでうまく行けばいいのですけれど、うまく行かないのであれば、別の方法を考えた方がいいですね。うまく自分の心が動かないとしたら、まずはいったんそのまま受けとめてあげるのは悪くない方法ですよ。

 * * *

以上、「たとえば」ということで、勝手なことを申しました。もしもあまりあなたにあてはまらなかったらごめんなさい。

ご質問ありがとうございました。

 * * *

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