「新聞記者が科学に弱い」という情けない現状には、二つの要因があると考えています。
第一には、1970年代に公害(環境破壊のことです)が深刻になったころに言われていた「科学は万能ではない」「科学は人を幸せにしない」「科学信仰に走ると、人の真心が置き去りにされてしまう」といった言説がステレオタイプに固定されたまま、半世紀も経った現在でも新聞社やテレビの業界に凍結保存されてしまっているということです。
1960〜70年代は戦後の高度成長が完成した時代で、同時に工業化による環境破壊も多く、社会問題となっていました。急速に進んだ工業化に対して「なにかが置き去りにされてきたのでは」と批判を加えるというのは当時としては妥当性はたしかにあったのですが、それを50年も経ったいまでも同じように言い続けているというのは、もはや歪んだ教条化以外の何ものでもありません。
しかし新聞やテレビの業界は一般業界と違って、外部から批判されない世界です。近年はネットからはさんざん批判されてますが、メディアの人は「またネトウヨがなんか騒いでる」ぐらいにしか思っていないので、まったく効果は出ていません。ただ社会全体で考えれば、メディアの信頼度は年々落ちていき、いまや地面よりも下に潜るぐらいにはなってしまっているのですが、それについてもメディアの人は「根拠のない批判の刃にさらされ、この国には報道の自由が侵されている!」という程度に認識しているだけなのです。
第二のポイントとして、新聞テレビの記者の目線がつねに「庶民目線」「市民目線」に置かれているということがあります。これは現実の庶民や市民ではなく、あくまでも記者が「ぼくのかんがえてるしみん」「わたしがこうであってほしいとおもってるしょみん」であることに留意が必要です。それらの庶民・市民は無垢の存在で、知識も乏しい人たちと捉えられているのです。
わたしは新聞記者時代、先輩記者から「岩手に住んでる80歳のおばあちゃんにもわかるように書け」と教育されたことがあります。岩手県民や女性高齢者にずいぶん失礼な話だと思いますが、その言い回しで「庶民・市民」のニュアンスはなんとなくわかっていただけるでしょう。
「庶民・市民は科学のことなんてまったくわからない。だから彼らを代弁するわれわれ記者も、科学に疎い市民の代表として記事を書くのだ」というようなスタンスがあり、これが科学に弱いもうひとつの要因になっています。
この二つの問題は、現在の新聞テレビにおける内在的な構造に因るものであり、改善されるのは難しいでしょう。だから新聞テレビが改善されるよりも、それよりも優れた専門知の集合体をネットの中に作りあげていく方が、建設的な方向なのではないかとわたしは考えています。