思春期に嫌な目に遭わされた嫌な同級生が、長じて出世している時に感じるモヤモヤ感。そのお気持ちよくわかります。ただモヤモヤして腹を立てていても、現実を変える方法など何もないしまったく非建設的ですよね。それをおわかりのうえで質問のメッセージをいただいているのだとは、もちろん承知しています。
ではどうすればいいのか。同級生の存在をなくしたり変えたりすることはできないので、自分のマインドを変えるしかありません。そこで出番になってくるのが、わたしの大好きなストア哲学です。ストア哲学は古代ギリシャ・ローマ時代に支持され、有名なところではローマ皇帝のマルクス・アウレリウスが「自省録」というストア哲学に基づいた本を書いています。
ストア哲学はさまざまなことを語っていますが、現代にも通用するとわたしが考えているのはこれ。「自分がコントロールできないこととできることをちゃんと分けよう。自分がコントロールできないことは無視し、自分がコントロールできることだけに集中するのだ」
たとえば「死ぬこと」について考えてみましょう。わたしたちは死から逃れることはできませんし、いくら「死にたくない」と考えても、死なないですむ人はいません。だから「死にたくない」と考えることは、自分のコントロールの範囲外であり、そういう思考は無視した方が良い。
しかし死についての自分の思考をコントロールすることはできます。たとえば死に臨んだ際に、自分がどのような態度をとるのか。死について自分はどう考えるのか。自分のマインドだけをコントロールすることで、死にたいしての向き合い方法を変えることはできるのです。
自宅に泥棒が入り、お金を盗まれてしまったとしましょう。犯人は捕まりません。これにいくら腹を立て、「泥棒けしからん」と叫んでも、お金は戻ってきません。逆にいつまでも腹を立て続け泥棒を恨むことで、自分が苦しいだけです。そこでストア哲学はこう考えよというのです。
「泥棒は人のお金を盗むという行為を働いたことで、徳をひとつ喪っている。それに対して自分はお金は盗まれたが、泥棒の行為に対する怒りを諦めることで、徳を積むことができているかもしれない」
自分の心の中だけは、自分の力でいかようにも無限に変えコントロールすることができる。これがストア哲学の本質のひとつです。
嫌な同級生が出世しているのを見てしまったときには、このストア哲学の教えをぜひ思い出してください。「嫌な同級生は長じてもきっと嫌な奴のままだろう。それは私の知ったことではない。しかし私は彼とはまったく違う人生を歩み、彼を反面教師として嫌な奴にならないようにして生きてきた。どちらが徳を積んでいるのかは明らかではないか」