こんにちは。いつも、拝見させていただいています。地方で働く、40代の男です。

少し前に、新聞の地方紙に、県、警察の人事異動が掲載されていて、たまたま、小学校の同級生が、警察官になっていることを知りました。

最初、同姓同名の別人かなと思いましたが、あまりない名前ですし、父親も警察官だと言っていたのを思い出してしまったので、たぶん、その同級生なんだろうなと思っています。

その同級生とは、中学校卒業以来、会っていません。小学校、中学校と、僕は、その彼から、秘密をバラすとか、無視してやるとか、悪口を言われていました。

その秘密の内容は、今思えば、正直、大したことないものでしたが、その当時の僕の中では、身体的なこと、性に関することなので、人に知られることは嫌なことでした。

そんな同級生が、警察官になったとか、しかも、地方とはいえ、幹部となっていると思うと、正直、もやもやしたり、何だかなあ、と思います。

もちろん、若気の至りで、今は、きちんと仕事をしているんだろうなとも思ったりしますが、その同級生が、警察かあと思うと、やっぱり、ネガティブに感じます。

もちろん、その同級生とは、たぶん、もう関わることはないでしょう。だから、終わったこととして、扱えばいいのだと思っています。

が、何となく、モヤモヤを感じ続けるのも嫌なので、佐々木さんだったら、どのように対処するかとか、気持ちの持ちようなどを、教えていただきたく、質問させていただきました。お返事をいただけると嬉しいです。

思春期に嫌な目に遭わされた嫌な同級生が、長じて出世している時に感じるモヤモヤ感。そのお気持ちよくわかります。ただモヤモヤして腹を立てていても、現実を変える方法など何もないしまったく非建設的ですよね。それをおわかりのうえで質問のメッセージをいただいているのだとは、もちろん承知しています。

ではどうすればいいのか。同級生の存在をなくしたり変えたりすることはできないので、自分のマインドを変えるしかありません。そこで出番になってくるのが、わたしの大好きなストア哲学です。ストア哲学は古代ギリシャ・ローマ時代に支持され、有名なところではローマ皇帝のマルクス・アウレリウスが「自省録」というストア哲学に基づいた本を書いています。

ストア哲学はさまざまなことを語っていますが、現代にも通用するとわたしが考えているのはこれ。「自分がコントロールできないこととできることをちゃんと分けよう。自分がコントロールできないことは無視し、自分がコントロールできることだけに集中するのだ」

たとえば「死ぬこと」について考えてみましょう。わたしたちは死から逃れることはできませんし、いくら「死にたくない」と考えても、死なないですむ人はいません。だから「死にたくない」と考えることは、自分のコントロールの範囲外であり、そういう思考は無視した方が良い。

しかし死についての自分の思考をコントロールすることはできます。たとえば死に臨んだ際に、自分がどのような態度をとるのか。死について自分はどう考えるのか。自分のマインドだけをコントロールすることで、死にたいしての向き合い方法を変えることはできるのです。

自宅に泥棒が入り、お金を盗まれてしまったとしましょう。犯人は捕まりません。これにいくら腹を立て、「泥棒けしからん」と叫んでも、お金は戻ってきません。逆にいつまでも腹を立て続け泥棒を恨むことで、自分が苦しいだけです。そこでストア哲学はこう考えよというのです。

「泥棒は人のお金を盗むという行為を働いたことで、徳をひとつ喪っている。それに対して自分はお金は盗まれたが、泥棒の行為に対する怒りを諦めることで、徳を積むことができているかもしれない」

自分の心の中だけは、自分の力でいかようにも無限に変えコントロールすることができる。これがストア哲学の本質のひとつです。

嫌な同級生が出世しているのを見てしまったときには、このストア哲学の教えをぜひ思い出してください。「嫌な同級生は長じてもきっと嫌な奴のままだろう。それは私の知ったことではない。しかし私は彼とはまったく違う人生を歩み、彼を反面教師として嫌な奴にならないようにして生きてきた。どちらが徳を積んでいるのかは明らかではないか」

5か月

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