わたしは最近「信じる」は必要です、というようなことを人に話した。話したあとから考えています。言葉にするから考える。あれ(信じる)は何か強く本体(わたし)を作動させるための回路というかスイッチだからそれがなきゃ動けない。そうわたしは考えていた。だけど殺し合いは信じるもの同士がする。わたしには音楽がそれに似ていて、わたしはいつからか音楽をほとんど、たまには聞きますが、聞かないのですが、なぜかを考えたら、わたしは音楽で呼び覚まされるというか、思い出させられるというか、ああしたものが嫌いです。高揚したりすること、感傷、のようなもの。軍隊には音楽はつきものなのに「平和」とかいうところ。だからそういうもののない、即興みたいなものや、物音、みたいなものを聞こうとしたときもあるのですが、あれらはあれらでやはり何かそれだけではない、何と書けばいいか、わたしが動く。動くのが嫌いなら本も読まないと思うから、耳から動くのが嫌いなのかもしれませんがそこはわかりません。何が嫌いなのだろう。怖いのかな。リズムに合わせて、なのか、からだが動くのは嫌いじゃない。わたしはこのことにおいて混乱しています。信じる、は生きるにおいて必要なのかどうなのかわたしはわからない。使いやすい道具にも思える。どこかまでなら連れて行ってくれる道具。しかしどこかからか先はそれなしで歩かなきゃいけない。音楽も、小説も。信じるも。しかし先って何だ。どこからかのその向こう、って何だ。わかりませんすみません。

1年

利用規約プライバシーポリシーに同意の上ご利用ください

山下澄人さんの過去の回答
    Loading...