世の中の食べ物は、当然ながら誰からも好まれやすいものに収束していきます。それは時代と共に変遷しますが、少し例を挙げれば今は、ハンバーグなら肉汁じゅわー、何でも食べやすくふわふわとろとろしたものが人気、うま味とコクとまろやかさ重視、ごちそうと言えば寿司か焼肉、みたいな感じです。こういうものを僕は「最適解」と読んでいます。世の中の食は多様化していますが、同時にそのほとんどはこの「最適解エリア」に集中して収まっていると感じます。

 

さて別の視点で、世の中には大別して2種類の人間がいます。食べることが好きな人と、食べることが異常に好きな人です。後者は少数派ですが、不思議なことに、その異常性が高まるほど好みが最適解エリアの外に向かう人が少なくありません。ハンバーグに肉汁など不要、外国の料理は現地そのままの味でお願いします、スパイス・ハーブ・薬味万歳、焼肉よりフレンチ、寿司より懐石でしょ、みたいな。もちろんそういう人々にとって、最適解が忌むべきものというわけではありません。それはそれとして好ましいものであることもまた多い。でもそればっかりじゃあ……ということです。

 

この「最適解からの離れ方」も人それぞれです。極端な例で言うとジロリアンは、上記の例の方向性とは全く違います。しかしそこには何らかの共通した傾向があることも少なくありません。ともかくそういった「最適解から離れて味覚の外周にむかいがちな人々」を、僕は周縁の民と読んでいます。

実は海原雄山や山岡士郎も周縁の民です。しかし彼らは、自分たちの居る場所を、周縁ではなく頂点とみなしました。「究極」「至高」という言葉がまさにそのことを象徴的に表しています。もちろんこの概念は当時日本の食文化の大きな発展を促しましたが、今となってはそれは、少しいびつで危険な世界観だと感じます。ていうかあんまり愉快ではない。

 

周縁の民にとって、食べ物が最適解エリアに集中しすぎる世の中は、決して好ましいものではありません。もっと満遍なく広がってほしい。そこで周縁の民は仲間を増やすべく行動します。そのことによって社会をより自分にとって好ましく作り変えたいと願うわけです。これを僕はゾンビ理論と読んでいます。

美味しんぼの時代なら、仲間増やしは「啓蒙」であり、「お前らも目覚めてここまで登ってこい」という、良くも悪くもわかりやすい構造でした。しかし周縁の民はそういうわけにはいきません。

なのでとりあえず共通の価値観を持つ人々が、キャッキャウフフと交流して、そこに誰かが「なんかこの人たち楽しそうだな」と参入してくることを待っています。実際はキャッキャウフフそのものが楽しいので、むしろそれ自体が目的になっている面もありますが。

個人的な感覚として、普段は最適解エリアに居つつもそこに何かしらの違和感を感じている人は決して少なくないのではと感じています。そういう人たちに向かって、こっちにおいでよ、楽しいよ、と手招きしているのが周縁の民なのです。

2024/02/19投稿
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