それはどうか温かい目で見守っていただきたい気もします。誰もが通る道だからです。
蕎麦文化圏外の人間からすると、それは特別な食べ物です。また蕎麦には、茶道や華道ほどではないにせよ、それに準ずるような「蕎麦道」的な世界が東京を中心に存在しています。一人称は概ね「小生」です。その世界の存在を知ってしまうと、特別感は否が応でも増してしまいます。
蕎麦道には様々な流派が存在しますが、中でも「十割をもりで」みたいなやつが一番目につきやすく、また初学者にとってたいへんわかりやすいおいしさでもあります。そこが格好の入り口になっているわけですね。
かく言う僕も、もり以外のものを注文できるようになるにはそれなりの年月を要しました。温かい蕎麦を食べるにしても、それは「鴨南蛮」や「花巻」など、いかにも小生的なるものに限られました。しかし僕は去年、ついに生まれて初めて蕎麦屋さんで「きつねそば」を注文しました。「俺もようやくここまで来れたか」と感無量でした。
質問者さんにとってはもはや何を言っているのかよくわからないかもしれませんが、それはおそらく文化資本によるものです。蕎麦を当たり前のものとして育ってきた質問者さんは、最初から蕎麦文化の高みにいるのです。
首都圏も一応蕎麦文化圏ではあるのですが、こちらでは、立ち食い蕎麦に代表されるような生活としての蕎麦と、蕎麦道的な趣味の世界は明確に別れています。「十割をもりで」的な入り口から後者の世界に足を突っ込んだ人々にとってはどうしても、あたたかい蕎麦は前者の世界に属するもの、という認識が生まれがちなのです。それもあって冷たい蕎麦の神格化は進み、少なからぬ人々が「これこそが到達点」「これだけが正解」という誤謬に陥ってしまいます。その状態から抜け出せて漸く、彼らにも現在質問者さんから見えているのと同じような風景が見えてくるのです。
質問者さんは、彼らをそこに導く使命もあります。それがノブレスオブリージュというものです。そういう意味で、「彼らの"通"感を破る」というのが、「論破」や「マウンティング」になってしまうのはあまりにも卑しい。それは蕎麦貴族にあるまじき振る舞いです。
「冷たいお蕎麦がおいしいのは、どんなお店でもある意味当たり前。温かいお蕎麦がおいしいお店では、せっかくだからそっちを食べとくのもイイかもよ?」
みたいな感じでいかがでしょう。