舟橋 秀晃/FUNAHASHI Hideaki,Ph.D.:■教育政策としての「学びに向かう力、人間性等」とは 現在、文部科学省は「学びに向かう力、人間性等」を学力の3要素の一つに挙げ、その育成を重視しています。詳しくは次のリンクから冒頭部分をお読みください。 https://mond.how/ja/topics/8qy92hk9celkfeb これからの時代において、子どもたちに教育を通じて伝えるべき最も重要なスキルや知識は何でしょうか?また、そのスキルや知識を習得するために、現行の教育システムにどのような改善が必要だと思われますか? | Mond - 知の交流コミュニティ Mondでこの質問への回答を読んでみましょう https://mond.how ■教育の場で起きていること 20世紀の教育学は「行動主義心理学」がリードしました。行動主義心理学は、アメリカの比較心理学者(動物心理学者)であるジョン・ワトソン(J.B. Watson)が1912年に提唱したことから始まります。彼は意識を対象とする伝統的心理学に反対し、客観的に観察可能な行動のみを心理学の対象とすべきだと主張しました。 一方、21世紀初頭の教育学は、いまのところ「社会的構成主義」がリードしています。これは、まずピアジェ的な「構成主義」(「生徒が自分自身の知識を構成し、自分自身の世界の意味を理解する」)から飛び出して、個々の学習者が私的に知識を構成しているのではなく、人間は社会の中で人との交流・相互作用を通して〝自分自身〟になっていくのだとする考え方です。 こうした思潮の変化の中で、教育の分野で指摘されてきたことは、次のとおりです。これは私が別の質問に対して答えた内容の一部です。先ほどのリンクの中盤部分です。 ------------------------------------------------------------------------------------------------------------------ では、これまでの教育のどこが問題だったのでしょうか。 教員はだれもが、子どもの「わかる」「できる」を何とか確実に増やそうと努力しています。そのことは非常に尊いのですが、そこに〝スモール・ステップの罠〟が潜んでいたのです。 つまり、教員は細かく丁寧に手引きして、手厚いワークシートや指示で、今日の授業における「わかった」「できた」を子どもたちに確実に手渡そうとします。しかし、あまりに細かく先生から手引きされ指示された状態では、きょう「わかった」「できた」としても、明日ひとりで同じことを「わかる」「できる」段階には届いていなかったのです。これがよく言われる「指示待ち族」や「受け身姿勢」の問題を招いていたのです。 カレーの調理実習を例に考えてみましょう。先生が丁寧に道具と材料を揃え、わかりやすいワークシートと細かい指示をすることで、その日の家庭科室ではみんなが一斉においしいカレーを作れたとしても、果たして明日、独りで買い物をして、家でカレーが作れるでしょうか。また、そもそもカレーを作ってみようと思うでしょうか。 (略) 調理実習の例でいえば、毎日の授業に例えば次の改善を施すことが〝スモール・ステップの罠〟から抜け出る策になります。(※こうした考え方の背景には「社会的構成主義」や「自己調整学習理論」の文教施策への導入があるのですが、ここでは、具体例を通した説明に留めておきます。) Ⅰ 「目的」を子どもと先生が共有する。(例「『おいしい』カレーをめざすぞ!」) Ⅱ 「目標」はⅠのもと、先生の助言を得ながらも、子どもが各自で設定する。(例「うちの班はコスパのいいカレーをつくります」) Ⅲ 子どもが各自で「判断」できる機会を先生がいくつか与える。子ども(小集団あるいは個)によって判断が分かれると、授業は複線的に進むことになる。(例「コスパめざして、ミンチを用意します」「コスパをめざすなら、肉抜きのベジタブルカレーもやってみたい」など) Ⅳ 「目標」と「判断」が真に自分のものになっているなら、子どもは自ら振り返れる。このときの自己評価は、単なる点数やABCを超えて具体的な言葉を伴い、自己評価する行為自体がもはや立派な学習として成立している。(例 「ミンチだと安いけど、食べ応えがないなあ」「野菜カレーはおいしいけど、何の野菜をどれだけ煮込むかで味がずいぶん変わるね」など) ------------------------------------------------------------------------------------------------------------------ つまり、各子ども(児童・生徒)の内側・内面に知識がうまく構成されるよう大人(指導者)が振る舞う、といったような発想だけしか持ち合わせていないと、様々に考え試す自由が子どもから奪われ、大人の言いなりに子どもを支配するかのような授業に陥ってしまうのです。 子どもはもっと自発的に、自ら欲して、級友や周囲との関わりの中から気づきを得て,学んでいくことができますし、そのように導きたいものです。 ■「行動主義」学習観の欠点 上述の〝スモール・ステップの罠〟は、そもそも行動主義学習観によって生み出される弊害なのです。 行動主義学習観には大きな欠点があります。それは、人間の学びを、動物の学びと同一にとらえ区別しないことにあります(……と言ってしまうと、Animal Welfareの観点から動物に失礼かもしれませんが)。 行動主義によれば、学習とは「刺激による反応の永続的変化」と定義されます。つまり〝パブロフの犬〟のように、刺激を与える(給餌時にベルを鳴らす)ことで、やがてはエサがなくてもベルを鳴らすだけで反応が得られる(よだれが出る)ことを「学習の成立」とみていたわけです。 この定義には、大脳新皮質の活躍による「知的好奇心」は考慮に入っていませんし、単なる反復、繰り返し、外部からの刺激だけが重視されることになりかねません。それによって学びが得られるのは延髄あるいは小脳や間脳の部位でしょう。「つべこべいわずに黙ってやれ」「やらなければ殴るぞ」というような、無批判・無思考・指示待ち(=反復の弊害)、体罰容認(=外発的動機づけの弊害)の学びに陥るのは、この学習観自体に問題があるからなのです。これを「人間らしい学び」の姿だと言えるでしょうか? AIが台頭する21世紀、機械的反復による能力獲得は従来以上に機会に委ねられ、人間はより人間的な知的創造活動を重視せざるをえないでしょう。このような時代にあって今、教育学は社会的構成主義へとまさに歩みを進めているのです。 ■「社会的構成主義」学習観がもたらすもの ではいったい社会的構成主義によって、どのような学びがもたらされるでしょうか。それについては上述のⅠ~Ⅳをご覧ください。 指導者から目標を細かく管理されなくても、子どもは目的が分かれば自分から目標を立てて頑張れますし、自分で立てた目標に対しては、「う~ん、いまいちだったなあ」とか「よし、こんどはこっちを工夫してみよう」とか、自ら省みて次の行動を調整するでしょう(「Assesment as Learning 学習としての評価」=評価する行為自体がもはや「学び」そのものだという考え方)。 機械反復による単調さと罰による恐怖支配から解放され、自らの知的好奇心のために大脳を駆動させ、自らの目的実現のために自分の学びを制御する……これが、21世紀に再定義される、学びの面から見た「人間性」というものだといえるでしょう。(阅读更多)