金明秀 Ꮶɨʍ, ʍʏʊռɢֆօօ:社会学であれ法律学であれ、マックス・ウェーバーの至言に言い尽くされていると思いますよ。「経験的データの分析は価値理念に準拠しており、その分析の意義は当の価値理念からしか理解することができない。それゆえ重要なのは、頭の中から価値理念を消し去ることではなく、自分が何らかの価値理念に依拠しているのを徹底的に意識すること、また、価値理念の領域と経験判断の領域を明確に区別して、価値理念を経験判断の妥当性の証明に持ち込まないこと」『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』。社会科学は自然科学とは違って価値理念と切り離せません。だからこそ、上記の2点を自らの戒めとすべき、というのが価値自由の考え方ですね。
ただ、とりわけ米国の社会学分野では、1990年代以降、社会科学分野においても「客観的」な分析が可能であるかのように誤解する者が多すぎる、したがって、自分が依拠している価値理念をむしろ隠さずに表明すべきだ、という主張が支配的になった印象があります。「何らかの価値理念に依拠しているのを徹底的に意識する」ことが重要だからこそ、中立であるかのように装うべきでない、という考え方ですね。
他の社会科学分野と同様、社会学も、「客観的な科学」への憧れみたいなものが学問の出発点から付き纏っていました。19世紀以来の宿痾と言っていいでしょう。それが、ようやく1990年代に入るあたりで、ナイーブな科学主義に完全に諦めがついて、長い呪縛から逃れられるようになった、とも言い換えられます。
ということで、(1)自分が何らかの価値理念に依拠しているのを徹底的に意識すること、また、(2)価値理念の領域と経験判断の領域を明確に区別して、価値理念を経験判断の妥当性の証明に持ち込まないこと、というウェーバーの提言そのものは今も古びることなく受け継がれています。ただ、それを「価値中立」とは呼ばず、むしろ、価値理念を明示することで実現しようとする社会学者が増えている、とまとめられるでしょう。