金明秀 Ꮶɨʍ, ʍʏʊռɢֆօօ:ツイッターでは、何らかのマイノリティ当事者が、差別を告発したりハラスメントに抵抗するために声をあげる場面を見かけますよね。社会学的には、あれは、一種の社会運動(の始まり)である、と考えます。
日本では、普通の人たち=マジョリティにとって、社会運動というのは政治的にこだわりのある特殊な人たちがやるものだ、というイメージがあるようです。しがし、差別的な環境の中で日常的に生きづらさを強いられているマイノリティにとっては、ただ普通に生きるだけのためにやむなく社会運動をせざるをえない場面に追い込まれることがあるわけです。
さて、社会運動というのは、差別告発などの「目的」があってやるものですし、そのために良心的な支持者を効果的に集める必要があるなどの「戦略」を伴います。しかし、似たような経験をしている同じマイノリティ当事者であっても、自然に着想した目的や戦略がまったく同じということはありませんので、しばしば路線対立が生じます。というより、人によって様々な経験がある以上、路線対立は必然的に生じるといってもいいかもしれません。
ご質問の「マイノリティ同士や当事者同士で意見がバッティングする問題」がまさにそうした状況ですね。差別的な社会の維持に責任を持つマジョリティとしては、見ていて胸が痛くなる状況だったりします。しかも、当該のマイノリティが置かれた差別環境が深刻であるほど、路線対立は激しくなりがちで、より悲痛に感じられることでしょう。
かといって、そうした対立(へとマイノリティを追い込んでいる差別状況)を解消するためにも、差別問題の解決に貢献したいところではありますが、差別を解消するためには当事者の意見がもっとも重要である以上、当事者の意見が割れているときには効果的に支援することが難しい、というジレンマがあります。
では、どうすることもできないのかというと、この問題に対処するためのヒントになることはいくつかあります。
第一に、マイノリティの運動に路線対立が生じている場合、しばしば、その運動を快く思っていないマジョリティ(ようするにそのマイノリティを差別するような人)が、路線対立を利用する形でその運動の価値を貶めようとします。マイノリティ同士の路線対立に心を痛めているマジョリティは、路線対立の解消に介入しようとする前に、路線対立を利用しようとするマジョリティをこそ批判するべきでしょう。
第二に、深刻な路線対立が生じているように見える場合でも、運動の目的や戦略が完全には一致していないというだけであって、よくよく話を聞いてみると、両者が本質的に矛盾するようなケースはじつは少ない、ということです。わずかな戦略の違いであっても、重要なこだわりのポイントにかかわっている場合、それが当事者にとっては重大な問題と感じられるためです。もし、第三者を交えて、対立点がじつは本質的ではない、という物語を共有することができれば、対立は軟化することがあります。
第三に、マイノリティの社会運動というのは、異なる種類のマイノリティ間で連帯しうる、ということです。どのマイノリティも、差別によって運動を起こさざるをえないところへ追い込まれているという意味では同じ立場だからです。そして、どのマイノリティであっても、多かれ少なかれ似たような路線対立を経験していますので、何らかのマイノリティ(例えば在日コリアン)の対立している議論の調停役として別のマイノリティ(例えばセクシュアルマイノリティ)が活躍する、というケースもあります。他の種類のマイノリティも似たような問題を経験しているという指摘は、問題を相対化することに役立ちますので、対立点がじつは本質的ではない、という物語を共有するうえで効果的なのですね。
第四に、運動の目的や戦略を考えるとき、同じ種類のマイノリティといえども一枚岩ではないので、そのマイノリティ全体の利益と、個々の当事者の利益が一致するとは限らない、と対立の両者が認識しているとき、対立の解消は容易になる傾向があります。逆に言うと、対立している少なくとも片方が、自分の目的や戦略とそのマイノリティ全体の目的や戦略とを同一視している場合、対立はなかなか解消しません。この問題はなかなか根深いのですが、「マイノリティの中にもマイノリティがいる」という視点をつねに持つことが大事だと分かっています。
以上の4点は、いずれも複雑なロジックで生じる事象なので、なぜそうなるのかをきちんと説明しようとすると大変なのですが、社会運動の場面では非常に普遍的に観察される、ありふれたことです。
こうした、ありふれたこと、をうまく活用できたとき、その社会運動は問題状況を突破する局面に入っているのかもしれません。