古勝隆一 (Ryuichi KOGACHI):『論語』に温かみのあるユーモアがある、ということにつき、近ごろ読んだ印象がある、と思いました。そう言えば、井波律子先生の文章でした。少し、引用させてもらいます。 > 中国の古典には、対話形式によってことばの面白さを浮き彫りにする書物がある。その最たるものは儒家思想の祖、孔子の言行録『論語』である。 > > 『論語』の随処に、孔子とその高弟である顔回、子路、子貢らとのユーモアあふれるやりとりが見られる。……。 > > 勇み立つ子路を抑え、からかいながら、孔子は落ち込んだ気分を一掃し、明朗に態度を立て直すのである。ここには子路のことばは記されていないが、心を許した相手とユーモアたっぷりに対話しながら、元気を回復する孔子の姿が活写されている。楽しい会話や面白いことばが、いかに人を活性化させるか、如実にみて取れる場面である。(井波律子『ラスト・ワルツ』、岩波書店、2022年、p.7) なるほど、『論語』という書物は、先秦時代のことを書き留めたものとしては珍しく、非常に親しい師弟関係をこまやかに、かつユーモラスに伝えていますね。なかなかほかの書物には見られない特徴です。学園内部のことは、そうそう書かれるものではないので。 井波律子先生が、『論語』と並んで注目されている文献は、『世説新語』なのですが(『ラスト・ワルツ』所収の、「中国古典の鋭さとユーモア感覚」、「ことばとユーモア」、「人生を変えた『世説新語』」等をご覧ください。そして井波律子『中国人の機智―『世説新語』を中心として 』中央公論新社、中公新書 、1983年もお読みください)、この『世説新語』については、どうお考えでしょう?『世説新語』という書物、ユーモアという点では非常に興趣に富む書物であると、私は思うのですが、あるいは、痛烈な道家者流の辛辣さがまさっているものでしょうか? 道家の著作は、あきらかに中国的ユーモアの一典型であると思われますが、しかし、井波先生の言及はほとんどありません。そのなかで、『列子』に関してわずかに語られています。 > ある兄弟の話である。あるとき弟が白い服を着て外出したところ、突然、大雨がふってきてビショ濡れになった。そこで、黒い服に着替えて帰宅すると、弟の飼っている犬は見分けがつかず吠え立てた。弟が腹を立てて飼い犬をなぐろうとしたとき、兄はこう言ってとめた。「なぐってはいけない。もしもおまえの犬が出かけるときは白かったのに、帰ってきたとき黒くなっていたら、おまえだってやっぱりおかしいと思うだろう」。 > > 兄はユーモラスなたとえ話によって、怒る弟をたしなめ、人も犬も同じであり、生きとし生けるものには、基本的にっ区別がないとさとす。面白いことばや表現は、こうして会話の相手の緊張をほぐし、その視点を転換させることもある。(井波律子『ラスト・ワルツ』、7頁) 絵本、『どろんこハリー』(ジーン・ジオン文、マーガレット・ブロイ・グレアム絵、わたなべしげお訳、福音館書店、1964年)の祖型ともみなせる話ですが、疑いなくユーモラスな話であろうと思います。 しかし老荘思想において、このような「温かい」関係性が描かれることは、あまり多くないようです。むしろ、常識的な観念や主流派に対する目の覚めるような一撃が、そのユーモアの表出であることが多いようです。その点、お求めになっている「温かい」ユーモアとは、隔たりがあるのでしょうか。そうであれば、『世説新語』もやはり老荘思想に連なるものと、私には思われるので、ご関心からはずれるかもしれません。ご指摘になっている陶淵明が、たとえば「五柳先生伝」などであるならば、確かに、より「温かい」ものであるとも言えると思いますので、ご趣旨に賛同します。 中国の古代思想・古代文学においては、そもそも例外を除いては、「温かい」ものの出番が少ないように思います。何と言っても、九流百家や漢代思想においては、政治思想が主であり、仲間内の親密さは、たとえ描かれることがあったとしても、伝わることは少なかったのではないでしょうか。その意味で『論語』は得難いものであるとも思われます。 ご質問、ありがとうございます。中国学の専家からのご質問であるようにも感じられましたが、わたくしの思うところを述べさせていただきました。井波律子先生の文章を、先生の逝去後に、井波陵一先生が整理なさった、『ラスト・ワルツ』をお読みいただければ、私も嬉しく存じます。(Read more)