福島真人:現代アートというのは、仮に定義をすると、アートという制度そのものの存立基盤に対して、さまざまな形でそれにチャレンジすることが内包されているような部分をそう呼ぶという傾向があります。つまりただ普通に美人画や風景画を描いただけでは現代アートとはみなされず、そうしたいわばメタな視点、つまり潜在的なアート制度への批判/批評的な側面が専門家に評価されることでそう呼ばれる。 それゆえ分かりにくいのはある意味当然で、その作品そのものを見て感じる印象には、その作品に関する業界内の立ち位置の情報は含まれていないからです。その意味では現代アートにはある意味学術と似たような側面があり、いわば従来の蓄積に対してその作品がどういう新しさを追加しているか、そこがポイントになります。デュシャンのように、従来の芸術観をおちょくって市販の便器をこれも作品として提示することは、そもそもアート作品ってなに、という問い直しにつながったので、この作品が現代アートで最も影響力があるものとされるのもむべなるかな、です。 他方、ある別の作家*のように本邦では現代アートの中心から出発したのに、その後そういう評価を受けてないのは、まさにそういう疑似学術的文脈とは無縁のところで仕事をしたからでしょう。 逆に村上隆が高く評価されるのは、常にアート業界での動向を注視し、そこで何か新しいかを見極めて作品を提示したからで、アニメキャラの像なども、そのプロポーションが西洋美術のギリシャ由来のそれとは似ても似つかないので、これは行けると思ったからです。 それゆえどこをみるか、というとその作品の制作の背景、文脈、意図を観るしかありません。例えば美術館に砂や岩を持ち込むことがなぜアートなのかは、そうした試みの代表の一人スミッソンのサイト・ノンサイトという考えを知る必要があります。その意味ではやはり楽しむには現代美術史の由来を頭にいれておくというのが、一見遠回りですが結局近道かと思います。 野又穫はなぜ論じられてこなかったのか。社会学的想像力をかき立てる現代アーティストを観る 野又穣という現代アーティストの作品を通し、「評価」とはどのように行われるものかを考察する。 https://www.moderntimes.tv * https://www.moderntimes.tv/articles/20230908-01nomataminoru/(Read more)