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三位一体という教説は、4世紀ごろいわゆる公会議で正式に認定された考えですが、キリスト教教説史を読んでいつも面白いと思うのは、少なからぬ数の人々がこの考えに納得できず、ありとあらゆる異説がその前にも、そのあとにも出てきて、それに対してカトリック教会は異端説として激しい攻撃と排除を行ったという点です。

他の世界宗教でも様々な内部の論争があり、決着がつかずに分裂したり、対立が長引くということはよくある話ですが、キリスト教の特徴は、この教えを守るための教会の組織力と、異端に対する排除への意思、さらにこの教説を正当化しようとする、さまざまな理論的(神学的、哲学的)な努力、といったものでしょうか。

論理的には様々なバリエーションができても、それらは容認しないし、時には国法で禁止されて他の異端教説はむしろアジア諸国(例えば中国等)に広まったりもしています。更にプロテスタントになると、非常に多様なグループが活動するようになり、解釈の自由度は拡大しますが、それはまた別の話ですね。

ただし多少付け加えれば、信仰の体系がそもそも哲学のように論理的一貫性を持たなければいけないという義理もないわけで、そうした一貫性を求めるのが単に信仰を理性の範囲内でとらえる限界、という批判もあり得ます。人知が及ばないのが信仰の領域であるのなら、そうした矛盾こそが信仰の深みを示す、という主張もあり得るわけです。

2 years ago1 year agoUpdate