Koji Fujita:言語相対性(サピア=ウォーフの仮説)としてよく知られている考え方ですね. その人の話す言葉が,その人の思考に影響を与えるということで,言語決定論(言葉が思考を決定する)という強い主張は誤りだが.言語相対性のような適度な相対論は正しいと思われます. そこでいつぞやも回答したのですが,ある言語を別の言語に翻訳すると,必ず微妙な意味の違いが生じ,完璧な翻訳は不可能とされることもあります. そのような言語相対性は主に,語彙の面に現れてきて,例えば日本語の「兄」 弟」や「水」「湯」の区別は英語の基本語彙にはありません.日本語で兄弟について話す場合は,必ず自身との年齢の上下関係が問題になりますが,英語ではそれは棚上げにできるということです.なぜそうなのかについては,文化や伝統の違いに基づく怪しげな説明がいろいろありますが. より言語学ぽい話をすると,自動詞を多用する日本語,他動詞を多用する英語,という違いがあります. I broke my PC. のIはPCをわざと壊した場合(意図的行為者),うっかり壊した場合(非意図的原因)の両方があり得ますが,日本語では,後者の場合は「パソコンが壊れた」と自動詞表現になるはずです.これは日本語文化では誰の責任で壊れたのかということをあまりはっきり言わず,ぼやかす,責任の回避を好む,ということと関係するようです. 面白い話としては,日本語話者は誰かがうっかりパソコンを壊した場合,誰が壊したのかをあまりはっきり覚えていない,英語話者でははっきり覚えているという違いがあって,これが法廷における証人の証言の信憑性にも関係してくるらしいですよ.(Read more)
小田部正明 (Masaaki Kotabe):間接的に貴方の質問と似たような文化に関する質問に答えたことがあります。比較文化論で説明すると一番うまく説明できそうです。その時の答えを下に記します。そのあと、貴方の質問に直接答えます。比較文化論がはやり始めた1960-70年代にとても説明力のある理論がEdward T. Hallによって提唱されました。その後、比較文化理論はな色々と複雑化していきましたが、私はHallの説明が簡単でしかも一般的に説得力があるので、この理論で説明してみます。文化にはローコンテクスト(Low Context)文化とハイコンテクスト(High Context)文化がある事が分かっています。この根底には言葉の正確性・あやふやさにあるとされています。ドイツ語やドイツ語の派生語(一般に北欧の言葉)、そしてドイツ系の移民が多かったアメリカの英語等は、言葉一つ一つの意味がはっきりしていて、あまり隠された含蓄のない言葉です。つまり、物事をどちらかと言えば白黒、イエスとノーではっきりさせる考え方です。この単刀直入な考え方をする文化を「ローコンテクスト文化」と言います。一方、日本語やラテン語から派生したフランス語やスペイン語は状況に応じて含蓄の多い表現が多いのが特徴です。つまり、物事を白黒で見るのでなく、イエスとノーの間にいろいろな灰色の部分になる中庸的な見方をする言葉です。このような中庸的な含蓄の多い考え方をする文化を「ハイコンテクスト文化」と言います。 次に英語圏(ことではアメリカとイギリスに絞ります)に関してですが、Hallによると歴史的にドイツ系の移民が多かったアメリカの英語はローコンテクスト言語に入れられていますが、歴史的にフランスの影響を多く受けたイギリスの英語はどちらかと言うとハイコンテクスト言語に位置しています。つまり、アメリカ人の発想は単刀直入で白黒がはっきりしていますが、イギリス人の発想はどちらかと言うと日本人の発想の仕方に近いことを意味します。 1事例を挙げます。ローコンテクスト文化のアメリカ人の(英語の)考え方(書き方)は、結論を最初に述べ、次にその結論に至った理由を説明していきます。どちらかと言うとハイコンテクスト文化のイギリス人の(英語の)考え方は、色々と関連した事項(事実)を説明してから、それに基づいて結論に結び付けていくのが普通です。ですから、英語圏と言ってもアメリカ人とイギリス人では全く逆の発想の仕方を使います。ハイコンテクスト文化の(日本語圏の)日本人は、どちらかと言うとイギリス型であり、当にストーリーてリングな所があり、結論が最後まで分からないような説明の仕方をする傾向があります。 アメリカの映画(例えばTerminator)を見ればわかるように、最初の10分も見れば善人、悪人がすぐわかり、後は善人と悪人の戦う様子を目で追って楽しむような形で映画が作られます。イギリス映画(例えばSherlock Holmes)は、映画を最後まで見ないと誰が善人で誰が悪人か分からないような描き方をします。日本の映画もイギリスと同じようなものが多いのではないでしょうか。(Read more)
松下達彦:語彙の問題(1)と語順の問題(2)を取り上げてみたいと思います。 語彙の問題は、Fujita先生も書いていらっしゃいますが、言語によって異なりの大きい部分です。ある言語文化圏で区別する必要の高いものごとは単語になりますので、例えば、和語(やまとことば=昔から日本語にある語)には雨の降り方や魚類に関する語彙が比較的多い一方、内臓に関する語彙はほとんど中国語や英語からの借用語で、和語が少ないことが知られています。英語との比較で言えば、日本語では「こめ」「いね」「もみ」「めし」などに当たる英語が rice しかないのに対し、英語で wheat, barley, rye, oatと区別されるものが、日本語では「小麦」「大麦」「ライ麦」「オーツ麦」とすべて「むぎ」になってしまうといったことがあります。中国語には、日本語の「いとこ」に当たる語が8語あります。男性か女性か、年上か年下か、母方か父方かによってすべて語が異なるからです。一方、「テーブル」と「机」は中国語では同じ語で表せます。その区別に意識が向いていないのかもしれません。 そして、母語で語として区別されていない概念の違いには気づきにくいということは当然あります。例えば、肉やシイタケやタケノコに「うま味がある」という意味を一語で表現する形容詞が中国語にはあります。私はこの語の中国語の意味がわかった時以来、それ以前よりも「うま味」を意識するようになりました。英語に関して言えば、engage や involve という語は、使うたびに英語らしい語だなあと感じたりします。また、ノーベル平和賞受賞者で環境保護活動家のワンガリ・マータイさんが、あるとき日本語の「もったいない」という語を学んで感動し、英語の wasteful とも異なる、物を大事にする心のこもった語で、この語 Mottainai を広めたいと受賞スピーチで語っていたことを思い出します。これらの例は、新しいことばを学ぶことの意義や楽しさを伝える例だと思います。 ただ、注意しなければならないのは、ある概念が単語になっていないからと言って、それを理解できないわけではない、ということです。「うま味」という語を知らない人でも、丁寧に説明すれば(あるいは「うま味」のあるものとないものを意識して食べれば)、「うま味」という概念は理解できるはずです。「テーブル」と「机」を中国語母語の人が区別できないかと言えば、そんなことはありません。ですので、言語の違いが人間の思考まで規定しているかと言えば、それは気がつくかどうか、気がついたうえで、どのぐらい意識が強いか、といったレベルの話だと思います。 2.語順についても興味深い点があります。日本語は基本的に動詞が最後に来ます。それ以外の語順は比較的自由ですが。英語は主語・動詞がまず最初に来て、その他の成分は後からついてきます。英語は、「誰がどうした」とまず最初に言わなければならないわけです。主語を省略することも、通常の書き言葉では、基本的にはできません。日本語は主語が省略できます。また、通常の文だけではなく、英語と日本語では、住所の示し方も逆です。そのせいかどうかわかりませんが、英語話者のほうが、結論を先に述べることが多いといったこともよく言われます。なんとなく、日本語のほうが、全体的な状況や理由をあれこれ言ってから、最後に大事なことを言うという感じですね。Fujita 先生が書いている、I broke the PC. のような表現もそうです。英語でもThe PC was broken. とも言えるのですが、わざわざ I broke the PC. のように言うことのほうが多いようです。さらには We had a very hot summer this year. のように、天候のような自然現象まで、人を主語にして言うことが多いようです。これは日本語では無理ですね。日本語では、所有を表す表現も存在文で表したりします。「公園に猫が2匹います。」と「Aさんには子どもが二人います。」と「日本の政治には問題があります。」はいずれも同じ構文です。これも人を主語にしない日本語らしい構文だと言われることがあります。 これはもしかしたら鶏と卵のような関係かもしれませんし、もしかしたら全く関係がない可能性もあります。語順がSOVだから、大事なことを最後に言うような文化になったと言える可能性はありますが、もともと大事なことを最後に言う文化だからSOVになったのかもしれません。また、もしかしたら、この二つには全く関係がないのかもしれません。SOVの語順の言語圏の人が、みな大事なことを最後に言う文化なのか、と言えば、そうとは言えないでしょう。例えば同じSOV言語圏でも、韓国の方は平均的に日本語母語話者よりははっきりと結論をおっしゃる方が多いような気もします。ですので、言語と文化の関係については、仮説としては興味深い点が多々ありますが、世界のさまざまな言語を検証してみないと簡単には言えないように思います。(Read more)