「年齢を重ねていったとき、自分が書いた物語に込められたものを理解できなくなったり、登場人物に共感できなくなったりするか」ということですね。

書かれた物語は変化しませんが、自分は生きているので変化していきます。ですから、執筆した時点での理解や問題意識は時間が経過すれば変化していきます。ですから、書いたときとは異なる受け取り方をしたり、異なる意味を見出したりすることはよくあります。

私が書いているのは数学が深く関連する物語で、しばしばそこに書かれている数学を理解できなくなっている場合もあります(滝汗)。もちろん、時間を掛ければ追うことはできるのですが「昔の自分はこんなところまで理解していたのか」と驚くこともあります。うれしいのかかなしいのか分かりませんけれど。

また、自分でたくさんの伏線(とその回収)を一つの物語に埋め込んでおきながら、あまりにもややこしい埋め込み方をしてしまったために、いまとなってはもう見つけられなくなってしまったものもあります。大切な胡桃を穴を掘って大事に隠したために、どこにその胡桃を隠したか忘れてしまった栗鼠のようですね。

自分は変化し続けているので、その都度その都度「書いておく」ことは大事だなといつも思います。あとになって読み返すと「理解できるし、なるほどと共感できるけれど、いまの私にはこのように表現することはできない」という場合はよくあります。

 * * *

私が書いている物語の登場人物は中学生や高校生なので、現在の自分とはずいぶん年齢が離れてしまいました。しかしながら、自分自身が中学生や高校生だったときの記憶や、また自分の子どもを観察しての経験をフルに生かして執筆に取り組んでいます。そのプロセスの途中には、何と言うんでしょうか、「深いところまで潜っていく」とでもいえるような感覚があります。

表面からすぐに見える悩みや喜びだけではなく、もっと深いところに根ざした悩みや喜びに触れるまで深く心の中へ潜っていくと表現すればいいのでしょうか。十分に深いところまで潜り、年齢を越えた何かまでたどり着けたらいいのだがと思っています。

たとえば、自分の性格や行動をふり返ってみても、若いときと現在とでは表面上はずいぶん違いますが、深いところではあまり変わっていないように思います。ただその表面に対する現れ方が異なるだけなのです(あるいは、年齢を重ねて隠し方がうまくなっているともいえます)。

物語を執筆するときには、自分なりに十分に深いところまで潜り、普遍的なものに触れた上で個別的な物語を構築できたらいいなと思っています。思っているだけで、なかなかそれを実現するのは難しいのですけれど。

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