Shu Seki:なかなか難しい質問ですね。
この質問にお答えしようかどうしようか迷って、お答えしないことそのものが研究者としての資質に悖ると思い、書いてみることにしました。
おそらく他の方の回答とは正反対の回答になるのかもしれませんが、そうであればより良いと思っています。
論文の引用、という観点はとても意味のある数値だと、私は思っています。ただ、一般に言われるような意味とは少し違います。
私自身が引用したい、と思える論文は、ことに研究の根幹をなす命題提示の部分に数報だけ引用する論文は、できるだけ長く信じられてきた従来のテーゼ・常識を形成した古い論文であることが数多あります。
これは、優秀と思える研究者によって導き出された概念が、どれだけ長く信じられてきたか、がその研究者の優秀さを見る一つの指標で、自分自身の研究対象を選ぶときにも、どれだけ長く信じられてきたことをひっくり返すか・それがどれだけ長く信じられるか、を一つの重要な判断基準にしているためです。
したがって、言葉で優秀さを表すとすれば、最も適当な言葉はおそらく「非常識」さで、世のたくさん引用されている・長く引用されている論文は、例外なく非常識な論文と当時思われていたものだからです。この傾向は近年少しづつ変質しつつあり、爆発的に引用される論文が、数年後にはほとんど見向きされなくなることも多く、材料としてのベンチマークを与える論文な度が典型的な例でしょう。
したがって、今後、引用数、それも短期的な引用数が優秀さを諮る尺度になりえるか、といえば少し違う気がします。
ここでいう非常識さは、文字通り日本語の非常識さとほぼ同義で、単に自然科学・社会科学分野における研究の非常識さ、という意味だけでなく、研究者としての優秀さは、そのあらゆる意味での非常識さに強くリンクするような気がします。
過去の驚くべき知見をもたらした科学者は、ほぼ例外なく非常識・破天荒と評しうる側面を有しており、そういう側面を持たない研究者は、結果として多くを革新する結果を得られないような印象を持っています。そういう意味で、その研究者のできる限り広範な人間像を見てみることが重要かもしれません。
個人は、私自身も含めて、それほど強くはない、優秀な研究者でありたいという希望”だけ”を求める傾向を追い求められない、そういう側面を有していますから、ある意味確信的に非常識である・破天荒であることを行うことで、自分自身の意識を変えられるのではないかと最近は思います。
素晴らしく面白い論文は、例えばDiracやBohrの論文がそうであるように、同時に激しい批判にさらされます。そのような批判に対し、耐性がある・寛容である、などというありきたりの言い様ではだめなのではないかとすら思います。
批判されることそのものを楽しめる・そういう風に有ることが優秀な研究者なのではないかという見解です。
長く信じられてきたものを覆し、長く信じてもらいたい、それができることが優秀な研究者であるとするのであれば、自然・事実に対してのみ誠実であればよいわけで、何も人間社会の規範に忠実である必要はないのかもしれません。ことに日本社会のような環境では、おそらく近い将来簡単に変容するであろう規範に、忠実に従うことが大きな意味を持つとは思えませんし、ギリギリ許容される範囲で自分の行動に対する批判を”楽しむ”環境とすることができるかもしれません。
一生涯、そういうやり方を貫くことも難しいかもしれませんから、「ある時は破天荒に、批判を楽しめる環境で、非常識な研究を進められる」ことが優秀な研究者の要件といえるでしょうか。
ラボアジェもフェルミも、当時の社会規範からは相当ズレたことをしていました。湯川・朝永もまたしかりです。(いわゆる日本社会的な)人格者、かつ優秀な研究者、というのは丘のクジラを追い求めるようなものなので、そうでない面白さが、優秀さには不可欠なのでしょう。そんな風に思います。
もう少しまじめな科学計量の話が所望であれば、