杉本憲彦:優秀な学生さんと同じで、評価軸がたくさんあるため、論文の引用数がすべてではありません。また、研究者の年代でも変わってくると思います。 私が若手で優秀な研究者だと思うのは、コンスタントに良い雑誌に主著で論文を掲載していて、その方しかできないオリジナルな研究を継続している方です。そういう方はだいたい、学会から若手賞をもらいますね。 中堅以降になると、上記に加えて、国内外を含めていろいろな方と共同研究をしていたり、研究費を安定的に獲得していたり、学会の運営や雑誌の編集者などで研究コミュニティに貢献していたり、というのも大事な要素になってきます。 優秀な研究者は優秀な教育者ではないことも多々ありますが、私の個人的な感覚では、総合的な指標で見て、教育もきっちりしていて、研究以外でも様々なところで活躍している方に、優秀な研究者かつ教育者として憧れます。 他の方も書かれているように、論文の引用数は分野で大きく変わります。その分野内で尊敬されている方は、少なくともその分野で優秀な研究者だと思います。(Read more)
Shu Seki:なかなか難しい質問ですね。 この質問にお答えしようかどうしようか迷って、お答えしないことそのものが研究者としての資質に悖ると思い、書いてみることにしました。 おそらく他の方の回答とは正反対の回答になるのかもしれませんが、そうであればより良いと思っています。 論文の引用、という観点はとても意味のある数値だと、私は思っています。ただ、一般に言われるような意味とは少し違います。 私自身が引用したい、と思える論文は、ことに研究の根幹をなす命題提示の部分に数報だけ引用する論文は、できるだけ長く信じられてきた従来のテーゼ・常識を形成した古い論文であることが数多あります。 これは、優秀と思える研究者によって導き出された概念が、どれだけ長く信じられてきたか、がその研究者の優秀さを見る一つの指標で、自分自身の研究対象を選ぶときにも、どれだけ長く信じられてきたことをひっくり返すか・それがどれだけ長く信じられるか、を一つの重要な判断基準にしているためです。 したがって、言葉で優秀さを表すとすれば、最も適当な言葉はおそらく「非常識」さで、世のたくさん引用されている・長く引用されている論文は、例外なく非常識な論文と当時思われていたものだからです。この傾向は近年少しづつ変質しつつあり、爆発的に引用される論文が、数年後にはほとんど見向きされなくなることも多く、材料としてのベンチマークを与える論文な度が典型的な例でしょう。 したがって、今後、引用数、それも短期的な引用数が優秀さを諮る尺度になりえるか、といえば少し違う気がします。 ここでいう非常識さは、文字通り日本語の非常識さとほぼ同義で、単に自然科学・社会科学分野における研究の非常識さ、という意味だけでなく、研究者としての優秀さは、そのあらゆる意味での非常識さに強くリンクするような気がします。 過去の驚くべき知見をもたらした科学者は、ほぼ例外なく非常識・破天荒と評しうる側面を有しており、そういう側面を持たない研究者は、結果として多くを革新する結果を得られないような印象を持っています。そういう意味で、その研究者のできる限り広範な人間像を見てみることが重要かもしれません。 個人は、私自身も含めて、それほど強くはない、優秀な研究者でありたいという希望”だけ”を求める傾向を追い求められない、そういう側面を有していますから、ある意味確信的に非常識である・破天荒であることを行うことで、自分自身の意識を変えられるのではないかと最近は思います。 素晴らしく面白い論文は、例えばDiracやBohrの論文がそうであるように、同時に激しい批判にさらされます。そのような批判に対し、耐性がある・寛容である、などというありきたりの言い様ではだめなのではないかとすら思います。 批判されることそのものを楽しめる・そういう風に有ることが優秀な研究者なのではないかという見解です。 長く信じられてきたものを覆し、長く信じてもらいたい、それができることが優秀な研究者であるとするのであれば、自然・事実に対してのみ誠実であればよいわけで、何も人間社会の規範に忠実である必要はないのかもしれません。ことに日本社会のような環境では、おそらく近い将来簡単に変容するであろう規範に、忠実に従うことが大きな意味を持つとは思えませんし、ギリギリ許容される範囲で自分の行動に対する批判を”楽しむ”環境とすることができるかもしれません。 一生涯、そういうやり方を貫くことも難しいかもしれませんから、「ある時は破天荒に、批判を楽しめる環境で、非常識な研究を進められる」ことが優秀な研究者の要件といえるでしょうか。 ラボアジェもフェルミも、当時の社会規範からは相当ズレたことをしていました。湯川・朝永もまたしかりです。(いわゆる日本社会的な)人格者、かつ優秀な研究者、というのは丘のクジラを追い求めるようなものなので、そうでない面白さが、優秀さには不可欠なのでしょう。そんな風に思います。 もう少しまじめな科学計量の話が所望であれば、(Read more)
加納 学:まず,ご質問に明確に回答すると,研究者を評価する際に論文の引用数が「すべて」ではありません.引用数が多い論文はそれだけ注目されているため,そのような論文を書いた研究者は優れていると言えますが,流行の分野は研究の善し悪しとは別に引用数が増える傾向があります.そのような分野に飛び込んで注目される論文を書けている時点で,嗅覚に優れた研究者だとは言えるでしょう.一方,不人気な分野というか,まだ誰からも注目されていないけれども,将来大きな花を開かせる研究というのは,すぐに引用数は増えません.それでも,新しい分野を生み出す研究ができる研究者は間違いなく優れていると思いますし,一般的にもそう考えられていると思います.(Read more)
野村 政宏:考えさせられるよいご質問ですね。研究者によって少し異なるかと思いますが、自分の研究の価値や面白さをきちんと説明ができて、生産性の高い研究成果を世の中に提供できる、というのは、「優秀」な研究者に求められる重要な要素だと思います。 論文の引用数は確かに重要なですが、その研究の価値を示す指標のひとつに過ぎません。分野によってどのフェーズにあるか、研究者人口や論文出版件数も大きく異なります。いいジャーナルに掲載されると論文引用数は伸びやすい傾向にありますが、研究者の間では「あれはちょっと怪しい」とか「実は再現性が。。。」という話もあったりします。 データから「優秀」と判断することもありですが、大局的な話や将来展望の話ができる研究者は真に優れているなと思います。(Read more)
澤博:研究者を職業としてみた場合に、優秀か否かというランク付けは通常しません。この理由は、研究が不連続点を内包しているためです。例えば、何年も鳴かず飛ばずだった研究者が、突然大きな発見(セレンディピティといいます)をすることで大きく評価されることがあります。一方で、「優秀ではない」研究者は明らかに存在します。研究そのものに対する姿勢が真摯でなく、剽窃や捏造、思い違いなどで不適切な結果を(しかも多くの場合には頻繁に)発信する人物を指します。論文の引用数についても、このような不適切な発信を行った論文は、却って多くの引用数を獲得可能です。この点からすると、優秀というのが勤勉さのような指標で評価されそうですが、実際には新しい発見や開発実績がなければ評価されないというのが実情です。なお、論文の引用数についても分野によって異なり、素粒子理論の学者からは「真理に迫った論文の先には研究はもはや存在しないので、引用数は増えない」との意見も聞いたことがあるため、引用数はすべてではないでしょう。(Read more)
林 茂生:科学の価値観は多様で、テストの成績やタイムで競う競技とは異なります。研究者には深い思考で新たな理論を打ち立てる人もいれば、探検好きで歩き回ることで新発見をする人もいます。実験が上手い人もいれば博覧強記をもって勝負する人もいて様々です。無限にある研究の課題から自分が何をすべきか、時代を変える何をすべきかを理解して、そこに突き進んでいける能力が、平凡な研究者から偉業を成し遂げる研究者を分けるのだと思います。また優れた研究者には他の人にはない強い一芸を持つ人が多いと思いますが、それは論文の引用数では測れません。なお「優秀」という評価は平均点以上を取る学生には使いますが、真に偉大な研究者にはそぐわない表現なので注意しましょう。(Read more)
大谷栄治:重要な質問をどうもありがとうございました.研究者を優秀かどうか判断することは,研究費の配分や賞の審査などいろいろなケースで必要になります.個人の研究成果の引用の程度の指標にh-インデックス(h-index)というのがあります.この指標は,内容を考慮せず,あくまでも引用数を基礎データに用いています.したがって,使用には注意が必要で,大きな弊害や問題点があり,例えば,サンフランシスコ宣言(2013年)Read the Declaration (日本語) | DORA (sfdora.org) やライデン声明「研究計量に関するライデン声明 」(2015)http://doi.org/10.15108/stih.00050 において,引用指標の過度な使用に警鐘がならされています.評価についての日本の大学で倫理教育の内容にもなっている大学もあります. 日本で優秀な研究者という場合に,いくつかのケースがあります.年齢によって,「優秀」の意味が変わってきます.また,優秀についての基準も変わってきます.若手に対しては,smartつまり有能で,そつなく研究をこなす人,平均よりも多くの論文を執筆している若手研究者は,優秀と評価されることがあります.その結果,若手の賞を獲得することがあります.中堅やシニアの研究者に優秀という場合には,ある分野の研究において,質と量で大きく貢献し,その分野に大きな影響を与えた方を優秀な研究者と評価します.しかし,その分野を変革した素晴らしい研究者については,優秀と評価するというよりは,評価者の基準を超えている偉大な研究者と言われるのではないかと思います.(Read more)
Hayato Shimabukuro(島袋隼士):皆さん色々な回答をしているので、そちらも参考にしていただくとして、私が優秀だと思う研究者は、もちろん論文数や引用数もありますが、「面白いテーマを研究している」ということです。ただし、「面白いテーマ」とは個人の主観によるものなので、誰が優秀な研究者かは個人に依存すると思います。自分の研究分野で「優秀な研究者」はその様な観点で判断しますが、例えば自分の知らない分野の研究者の「優秀さ」は、自分の尺度で測れないので、論文数や引用数に頼ってしまうのではないでしょうか。他人の優秀さを主観的に評価するには、自分もその分野である程度仕事をしていることが大事だと思います。(Read more)
田口善弘@中央大学:論文の引用数が全てです。それでは、なんで皆さん、それを否定されているのでしょうか?それはあくまで、「ある時点での引用数」で考えているからです。論文の引用は出版後すぐにあがる場合もあれは、なかなか上がらない場合もあります。極端な場合には、著者の死後に引用数が伸びたりします。となるとある時点でどれくらい引用されているかを判断材料に出来ないことになります。他の皆さんが、引用数だけじゃないと言われるのもあくまでそういうことです。 引用数は分野ごとに違うから比べられないといいますけどこれも本当に意味がある研究なら、分野を拡大させて、研究者の数を増やして引用数を増やすことができるから、やっばり研究者の優秀さと関係します。 いま、AIというか機械学習の大ブームが起きていますが。これは多分、一過性のものではなく、アカデミアの構造そのものを変えてしまう、大きなインパクトになるでしょう。そうなってしまえば、分野間の引用数の多寡なんて簡単に逆転してしまうでしょう。(Read more)
川原繁人:研究者として「優秀」といってもいろいろなタイプがいますよね。 * 既存の枠組みにとらわれない、オリジナルの研究を発表する人。 * その時々に話題になっている問題に対して、堅実な研究を残す人。 * その分野の歴史について精通していて、これからの研究がどこに進むべきか示せる人。 * 近隣分野との交流も盛んで、新たな知見を輸入してくる人。言語学の知見を近隣分野に生かせる人。 * 一般に向けてのアウトリーチが得意な人。 * 自分の研究はそこまで有名ではないのに、弟子たちがとても優秀な人(つまり教育が上手な人)。 * 学会の運営に積極的に関わって、分野を盛り上げてくれる人。 ですから、「優秀」とひとまとめに論じることはできません。論文の引用数は政治的な要因も絡むので、そこまで大事な指標ではないと個人的には思います。私自身も引用数は高い方ではないので、ありがた迷惑なGoogle Scholar さんとは距離をおくように生活しています。(Read more)