中林真幸:江戸時代初期の人口推定です。我が国の場合、江戸幕府の徳川吉宗が1721年に実施した人口調査が我が国初の全国人口調査調査であり(さすがは暴れん坊将軍)、その時に人口3000万人余りであったことと、その後、明治維新までに何度か実施された人口調査によって正確な人口を知ることができます。言い換えると、1721年以前の人口については、生産物等から人口を推定するしかありません。一瞬、意外に聞こえるかも知れませんが、支配者にとっては、GDPがどれだけあって、だからどれだけ年貢を取れるか、は重要な情報なので、生産物の推定は、史料に基づいて古代まで遡ることが可能なのです。民の人口や暮らしに関心もなく、歌を詠んだり恋に落ちたりに忙しかった平安貴族も、自分たちが支配している人口に関心はなくとも、自分たちの生活水準を支える年貢、それを支えるGDPには関心があったからです。我が国全土、隅から隅まで、身分の別なく、およそ全ての日本人を個人として大切だと考える、真に「公儀」に仕える将軍が出現しませんと、個人を特定する人口調査は実施されません(さすがは暴れん坊将軍)。
で、関ヶ原の戦いが終わり、江戸時代が始まった1600年の人口については、長らく、速水融先生が推定された1200万人説が定説でした。吉宗人口調査と比較するならば、17世紀を通じて人口が2.5倍以上に増える物凄い高度成長があったと推定していたことになります。たとえていえば、実際に人口が倍増した戦後復興期から高度成長期のような感じでしょうか。高度成長期には「昭和元禄」という言葉がありましたが、速水説は、まさに元禄は昭和のように高度成長であったと推定していたことになります。
しかし、数年前、斎藤修先生が、中世後期と近世初期のGDP再推定も踏まえて、1600年頃の人口は1700万人程度であったとする推定を発表されました。江戸時代初期に生活水準の顕著な低下が起こったと仮定しない限り、人口は1700万人程度はいたはずなのです。井原西鶴が元禄時代を「民勢さし潮(満ち潮)の如し」と描いたように、17世紀の生活水準は上がりこそすれ、顕著に下がることはなかったとすれば、斎藤推定の方が正しいでしょう。
斎藤推定に基づいたとしても、17世紀は間違いなく成長の時代であったのですが、1200万人から3000万人と、1700万人から3000万人とは、やはり、ずいぶんと違います。この斎藤推定は、国立研究開発法人科学技術振興機構が運営するJ-Stageで無料で落とせますし(下記
斎藤, 2018)、国際的にも新しい推定値として受け入れられています。が、メディアの方はもとより、研究者でも、ときどき、読んでいなさそうな人を見かけます。
参考文献
深尾京司・斎藤修・高島正憲・今村直樹(2017)「巻末付録 生産・物価・所得の推定」深尾京司・中村尚史・中林真幸編『岩波講座 日本経済の歴史 2 近世 16世紀末から19世紀前半』岩波書店,283-300頁.
斎藤修(2018)「1600年の全国人口:17世紀人口経済史再構築の試み」『社会経済史学』,84(1),3-23頁.https://doi.org/10.20624/sehs.84.1_3
Bassino, Jean-Pascal, Stephen Broadberry, Kyoji Fukao, Bishnupriya Gupta and
Masanori Takashima (2019) "Japan and the great divergence, 730–1874,"
Explorations in Economic History, 72, 1-22.
https://doi.org/10.1016/j.eeh.2018.11.005
Nakabayashi, Masaki, Kyoji Fukao, Masanori Takashima and Naofumi Nakamura (2020)
"Property systems and economic growth in Japan, 730-1874," Social Science Japan
Journal, 23(2), 147–184. https://doi.org/10.1093/ssjj/jyaa023