九月と言います。くがつと読みます。普段はお笑い芸人をしており、折に触れて文章を書いています。
さて、「正しすぎること」「ド正論」などという言葉が登場していました。いつも思うことなのですが、そういう文脈でいう「正しすぎること」とは、本当に正しいのでしょうか。
「正しいこと」≠「本題からずれた、正しいだけのこと」
そもそも、日常会話において時折忌み嫌われる「正しいこと」「正論」とは、本当に「正しいこと」のことではなく、「本題からずれた、正しいだけのこと」ではないでしょうか。
具体的な事例を考えてみましょう。
たとえば、恋人なり友達なり後輩なりが「学生時代にはあまり英語を熱心に学んでいなかったけれど、社会人になってから関心が芽生え、土日に勉強している」と言ったとしましょう。
それに対して、「学生時代からやっとけばよかったのに」「本気でやるなら平日も勉強しろ」「土日だけだと記憶が定着しない」などと言うのは、内容に矛盾がありません。だから正しく思えます。
でもそれはセンテンスとして正しいだけで、相手の問題関心には即していません。会話としては失敗です。相手の問題関心を踏まえず「ただセンテンスとして正しいことを言う」というのは、相手にとってストレスになってしまうからです。
「会話における正しさ」とは何か
そもそも「会話における正しさ」とは「その発言を切り出したとき、内容に矛盾がないこと」だけを意味しません。一定の会話が持っている関心、方向性に沿うことが重要です。
日常会話においては、相手の問題関心に即さなければ、真偽のジャッジすらしてもらえない。発言の内容が成立していたとしても、相手の問題関心に紐づいていないことを言ってしまったならば、我々は「何か違うことを言われている」としか思われないのです。
そのように考えると、「正しすぎる人たち」は、往々にしてあまり「正しい」と思われてもない可能性があります。正しすぎるのではない、「何言ってるかわからない」「今それじゃない」という場面が多いはずなのです。
「内容に矛盾のない発言」は簡単である
そもそも「ただ内容に矛盾がない発言」というのはとても簡単です。極端な例を出してみましょう。
「学生時代にはあまり英語を熱心に学んでいなかったけれど、社会人になってから関心が芽生え、土日に勉強しているんだ」「イカって軟体動物だよね」
この会話、聞き手は別に正しいことを返してはいます。しかし、会話として成立しているとは言い難いはずです。
正論を振りかざして相手を傷つけてしまうとき、われわれは極端に描写するとこういうことをしているのだと思います。だって、もし本当に相手の関心に即した正しい内容を言えているなら、相手を傷つけることは考えにくいわけですから。
要するに、「ただ矛盾がないだけのことを、相手の問題関心に即さず投げかけ続けてしまうせいで、相手をないがしろにして傷つけている」という構図こそが、「正論が人を傷つける」の本当のすがたなのではないでしょうか。
重要なのは、問題関心のすり合わせ
すると大事なのは、相手の問題関心に寄り添うことです。「ただ取り出して正しいだけのこと」を言わないようにすること。もし言ってしまったときには気付けるようになること。「相手の気持ちに寄り添う」なんて言い方は大それていて恐ろしいから、まずは相手の問題関心を理解する、くらいで考えればよいのではないか、と思います。
あるいは、本当に相手が想定していない角度からの発言をしなければならないこともあるでしょう。そういう場合には、その旨をきちんと伝えておくことが重要です。われわれは会話において、話している内容に注目しすぎている。語られた言葉そのものを見つめすぎている。違う。何に関心があるのか、どこへ向かいたくてその言葉を発したのかを、もう少し共有してみましょう。その方がずっと「正しさ」を扱う態度として、正しいのではないかと思うわけです。