高橋賢:件のケースは論外としても,これは非常に難しい問題です。まず問題なのは,適性があるかどうかを決定的に測る尺度がないことです。かつての社会科学系の大学院であれば,博士課程の3年間を過ごし,単位修得退学をしたのち,地道に研究を重ねて博士論文を書く,というルートが一般的だったので,適性があるかどうかを見極めるのは比較的長い時間の猶予がありました。私はこのルートの研究者です。私は院生の頃は先生方からセンスがない,能力がない,と散々な言われようでしたから。しかし現在では課程博士を3年+αでとる,すなわちある一定の要件を満たした博士論部をその期間に書く,ということが求められます。3年+αでは適性があるかどうか分からない人でも,時間を掛ければ何かしら研究が成し遂げられる可能性はあります。短期間である程度の成果が出せる,というのが現代的な適正なのかも知れません。
また,この種の問題は別の問題を孕んでいます。上記のように,適性を測るのは難しいとはいえ,明らかに適正のない人がいることも確かです。自分でテーマを見つけることができない,地道に調査をすることができない,催促されないと成果を出せない,そもそもロジカルな発想ができない,など,教師としては研究者として長い人生をやって行くにはちょっと辛いよなぁ,という人もいます。明らかに適性がない人は,若いからやり直しがきくとはいえ,人生の大事な時間を無駄にしてしまう可能性もあるわけです。そういう人に別の道を進めるというのも,1つの教育であり,本来的な優しさだと個人的には思いますが,現代ではそのような発言を教師がしたらとりようによっては(というか十中八九)ハラスメントになるわけです。正直そこには難しさを感じています。