古勝隆一 (Ryuichi KOGACHI):中国の古い書物には、人名を表す符号がつけられていないことが多いのが、困りものですよね。この種の間違いは、私もしばしばやってしまいます。
人名が人名らしく見えないことは、ある意味、表記のしかたのまずさだと思います。昔のひとも、それを感じていたらしく、たとえば戦国時代の楚簡にも人名を示す符号が付いているそうです。以下の論文を参照してください。
* 孫偉龍、李守奎「上博簡標識符號五題」(簡帛網、2008-10-14)、第四節「專名號」http://www.bsm.org.cn/?chujian/5088.html
この習慣が、発達に向かわなかったのは残念なことです。
ひとつの方策は、人名を明示する標点を施した点校本を多く読むことであろうと思っていますが、如何でしょうか。慣れで解決しよう、というわけです。注疏や音義に出てくるような人名は限られたもので、またその引用のされかたはパターン化しているので、見慣れれば、間違いにくくなるように思うのです。
私が心がけているのは、「自分も間違える以上、他人の間違いを笑わない」ということです。中国学に取り組んでいると、知らなくてはいけない「常識」が多すぎるので、特に初学の段階では間違いがつきものです。悪い先輩は、それを嘲笑したりするのですが、これは後輩のやる気をくじくことになってしまいます。たとえば、「あいつは雋不疑を『雋にして疑わず』と読んだ」と笑い話にして繰り返す、など。
嘲笑される側に負の影響があるのはもちろんですが、する側にはもっと悪い影響があります。嘲笑すると、成長が止まるのです。「常識知らず」をあげつらうことに注意関心が強く向くと、志が低くなるからだと思います。そんなひとをたくさん見てきました。これは、自分への戒めです。
さらに、「注疏読解の際に、簡潔すぎるあまり意味不明な文に出会ったらどうすればよいか?」というご質問をいただきました。確かに、説明が簡潔すぎて、意味が不明瞭である場合はあるでしょう。ある程度、文脈や類例を検討しても理解できない場合、私は、どうしても論文で引用したりする必要があるのでもなければ、不確定として置いておきます。意味が不明瞭でも、少なくとも二つくらいは読みの方向性を思いつくと思うので、その疑問を保持しノートに書いておき、後で考えます。
注疏に限った話ではありませんが、ためおいた疑問点は、ものごとをよりよく理解している先輩に質問することも多いです。「この問題だったら、あのひとに聞けば分かるかなあ」などと、しばしば考えます。
また読書会などをすると、他の参加者が、自分の思いもしない読みの可能性を示してくれることがあり、私にとってはこれまでも有益でした。集合知というやつで、読書会の醍醐味です。いまの時代においては、ネットで質問してみるのも、よい手かもしれません。