イナダシュンスケ:かつて僕はサイゼリヤのプリンを「世界一おいしいプリン」と評しました。その気持ちには寸分の嘘偽りもないのですが、同時に、それが万人の賛同を得られるなんて露ほども思っていませんでした。
今でこそ「硬いプリン」は、世間の一部とはいえある程度の支持を集めていますが、当時はまだまだ「なめらかプリン」が全盛でした。また当時も今も、洋菓子に「甘さ控えめ」を求めるニーズには強固なものがあります。
そんな中、サイゼリヤのプリンは(よくご存知の通り)みっしり硬く、容赦なく甘いプリンです。世の中の人がみんなこれを世界一、とまでは言わないまでも、すごくおいしい、と思うのであれば、世の中のプリンの主流はとっくにそのようなタイプになっていたはずです。そうなっていなかったということは、それを好まない人もたくさんいるということでしょう。
僕がある食べ物を「おいしい」と評する場合、2つのパターンがあります。ひとつは素直に自分がおいしい、食べたい、と思うものです。もうひとつは、自分はあまり積極的に食べたいとは思わないけど、客観的には良質で、多くの人に好まれて然るべきものだと判断しうるもの。この2つの定義がOR条件で網羅する範囲はかなり広いものになります。普段はあえて(ある意味はぐらかすように)両者の区別を付けないようにしています。
なぜそうしているかを説明し始めると全力で話が逸れていってしまうのでここではやめておきますが、少なくとも個人的に誰かにお薦めしたり、場合によって一緒に食べに行ったりするのは、もちろん前者に限られます。
そしてお薦めするにあたっては、入念に事前のプレゼンを行います。サイゼリヤのプリンであれば、昨今の甘さ控えめとろとろプリン隆盛の時代において、全国規模のチェーン店がそれに背を向ける尊さ、そのロマン、そしてヨーロッパにおけるデザートと日本人が求めるそれの乖離について、あるいはそれをワインやコーヒー(あるいは「塩」!)と合わせた時の思わぬ化学変化、などなど。
そして一番大事なのは、そのプレゼンには欠点(ないしはリスク)を含めるということです。硬さ、甘さ、重たさ、古臭さ、カラメルの苦さ、そこはきっちり説明する必要があるということです。
エリックサウスのメニューにある「グラブジャムン」は、主観的にはたいへんおいしいけど、素直においしいと思える人が少数派であることも分かっていますから、「情け容赦ない甘さ」「まだマシ」など、一見ネガティブな言葉を使ってメニュー上でプレゼンを行っています。
これは、予めそれを受け入れ難そうな人々に対する忠告のテイをとっているわけですが、本当の目的は、それによってより強い興味を抱いてもらうことに他なりません。欠点こそが最大の美点なのは、食べ物に限ったことではありません。プレゼンはこれが大事です。
つい先日「鮒佐の佃煮」を激賞しました。これもまた、誰かに薦めるのであれば、醤油がそのまま固形化したかの如きしょっぱさや、普通に考えたら高価すぎる値段など、実にプレゼンのし甲斐がある欠点(リスク)を抱えています。そして僕はそれを乗り越えて共感してくれる同志の登場を待ち望んでいます。
そういった渾身のプレゼンを経て、それでもなおそれが響かなかったら……それはもう、「やっぱりね」でしかありません。
食べ物に限らず様々な作品において、あるレベルを超えて良いものに対しては、必ず一定数以上のそれを受け入れられない人がいます。それが当然なのです。
なので質問者さんも、決して恐れることはありません。
野暮かもしれないけど「自分にとってどこかどういいのか」を言語化してアピールすること、そして欠点を余すことなく説明して最終判断はあくまで相手の意思に委ねること、そして、それを経てそれが伝わらなかったとしてもそれはある意味当然と思うこと。それで充分だと思います。
お薦めされた側の人にとっても、それはきっと良い経験です。