「差別」というのは、ある種の《正しくないこと》を糾弾するために作られた呼称です。いわゆる「規範概念」の一つですね。

なぜそのような呼称が必要とされてきたかといえば、たとえ《正しくないこと》であっても、それを《正しくない》(=いけないことである)と認識することが難しい人がいるためです。どんなに悪いことであっても、すべての人がそれを《いけないこと》だと理解するとは限らないのですね。とりわけ差別問題については、ごく普通の人々(=マジョリティ)こそ、《正しくないこと》を《いけないこと》だと理解できないことが多いのです。そこで、普通の人々に対して、よりわかりやすく、「それは《いけないこと》ですよ」と指摘するための概念として、「差別」という言葉は用いられてきました。

したがって、より本質的な問題は、「差別かどうか」ではなく、「《正しくないこと》かどうか」ということになります。

では、人々は、どういうことに対して、《正しくない》と判断するでしょうか。

これまでの研究では、富を《正しく》分配するとき、(1)衡平基準、(2)平等基準、(3)承認基準、という3通りの判断基準があると知られています。

衡平基準とは貢献度に応じて富を分配することが正しい(がんばった人ががんばった分だけ報われるのが正しい)という考え方です。給与でいえば能力給やボーナスがこの基準に則して支払われます。ケーキの切り分け方でいえば、ケーキを購入するにあたってたくさんお金を出したひとが大きなカットをもらう権利があるという考え方です。

平等基準とはメンバー全員を平等に遇するのが正しいという考え方です。参政権は国民であれば平等に一票与えられますし、行政サービスも原則としてすべての住民に等しく機会が与えられますが、これらは平等基準にもとづく制度です。給与でいえば基本給や年齢給がこれにあたります。ケーキでいえばパーティの参加者全員に均等に切り分けるべきだという考え方です。

承認基準とは特別な必要に応じて相応に配慮することが正しい(困っている人にはより手厚くもてなすべき)という考え方で、福祉サービスなどはこの基準が重視されます。給与なら扶養手当や住宅手当など各種の手当てが相当します。誕生日ケーキでいえば、誕生日の人がいちばん美味しそうなカットをもらうのが正しいというような考え方です。

この3つの基準は、いきすぎても、足りなくても、それぞれ機能不全に陥るため、差別には合計6通りの現れ方があるということになります(下図)。

さて、ここでご質問に戻ります。大坂なおみさんに対して、同胞意識(社会学では「共属感覚」といいます)を感じない、ということですね。それだけでは、差別かどうかわかりません。問題は、それが、この6つのうちのどれかに抵触するかどうかということです。

〇もし「日本語が話せないなんて、日本人として下等だ」という感覚があるようなら、それを表明することは「見下し」の差別です。

〇もし「大坂なおみさんには同胞意識を感じない」という理由で、他の日本人選手とは違う扱いをするようであれば、それは「排除」の差別です。

〇もし、日本語が不得手な大坂なおみさんに対して、それを非難するような態度を表明すれば、それは「同化強要」の差別です。

〇もし、「大坂なおみは日本語が苦手だから、たとえ日本代表であっても、同じ日本人とは感じない」と感じて応援しないのであれば、それが「他者化」の差別です。

(聖化と過剰包摂は省略)

というように、共属感覚の欠如そのものではなく、それが何に由来するかが問題なのです。さらに、住んでいる社会の価値観次第では、これら6つのいずれかが「当たり前」になっている場合もあります。その場合は、たとえこれら6つに当てはまっていても、それが《いけないこと》だと感じられないこともあるのです。

さて、そう考えると、差別をしないというのはなかなか難しいと思いませんか? もしくは、かりにあなた自身がしないとしても、あなたの身近な人が差別をしてもおかしくないと思いませんか?

大坂なおみさんは、「自分が差別をしないだけではだめ。差別に反対しなければならない」(Being “not racist” is not enough. We have to be anti-racist.)といいました。私は、名言だと思います。

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