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「家族との時間を犠牲にすること」と「偉大なことの達成」の関係ですね。私は特に偉大なことを達成しているわけではないので答えにくいですが、自分のことはいったん忘れて純粋に考えてみます。

素朴に考えるならば「人によるでしょう」になりますね。「○○を成し遂げることはできるか」という問いには「誰が?」が欠けているということです。

家族との時間を犠牲にせずとも偉大な仕事を成し遂げる人はきっと歴史上いたでしょうし、家族との時間を犠牲にして偉大な仕事を成し遂げた人もいるでしょう。そして、家族との時間を犠牲にしたけれど偉大な仕事を成し遂げなかった人も(悲しいことに)いるでしょうね。もうすこしうがった見方をするならば、家族との時間を犠牲にしてしまったために、偉大な仕事を成し遂げなかった人もいるんじゃないんでしょうか(これが一番悲しい)。

何か大きな仕事をするには大量の時間が必要な場合は多々あると思います。人間が使える「可処分時間」が限られている以上、仕事に振り向ける時間を増やせば、家族との時間が減ることも容易に想像できます。

ポイントの一つは、仕事に使う時間を増やせば、その分だけ偉大な仕事ができるとは限らないところにあります。人間は機械ではありませんし、偉大な仕事みたいなものは時間に比例して偉大になっていくものでもないでしょう。

時間という貴重なリソースを管理できるのは一つの能力(もしくは技能)ですから、それに長けている人は大きな仕事を進めることに有利です。そしてそれは家族と共に過ごす時間もうまく捻出できる可能性も持っていることになりますね。それほど単純な話とは思えませんけれど。

家族と過ごすべき時間がうまく捻出できない言い訳として「自分は仕事をしているのだから(家族と過ごす時間は犠牲になってもしょうがないのだ)」と言いそうになる危険性があるので、そこは注意したいところです。自分がやっているのが偉大な仕事かどうかは別として。

ワーク・ライフ・バランスとよく表現されるためについ「仕事」と「生活」を対比・対立させ、排他的に考えがちですけれど、それほどきれいには分かれないものだと思っています。「家族との時間を犠牲にする」という表現もすでに、対立しているという前提が入り込んでいますね。

仕事は仕事、生活は生活のように割り切れません。少なくとも相補的ではありますし、仕事(と呼ばれる活動)を行っている自分も、生活(と呼ばれる活動)を行っている自分もしっかりとつながっているように思うのです。

家族と時間を過ごすことと、仕事で何かを達成することとの関係を突き詰めて考えていくならば、どうじても「私は何のために生きているのか」「私はどのような人生を送りたいと思っているのか」という疑問に触れざるをえません。そのような問いはたいへん普遍的なものですが、答えはたいへん個別的なものになるのだと思います。

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結城浩

EngineerWriter

本を書いて生活しています。著書は『数学ガール』『プログラマの数学』『数学文章作法』『暗号技術入門』など多数。文章を書くこと、学んだり教えたりすること、プログラミング、数学、人と人とのコミュニケーションなどに関心があります。詳しい活動内容は https://mm.hyuki.net/n/n5f00c9cd281c をご覧ください。アマゾンの著者ページは https://link.hyuki.net/amayuki にあります。なお、私は数学読み物を書いていますが、数学科出身でもありませんし、数学の研究者でもありません。2014年度の日本数学会出版賞を受賞しました。〔ゆうき・ひろし〕