言葉が誤用され続けた結果、正しい表現と結果的になることがありますが、英語ではそのような事例はありますか?
回答(1件)
- 堀田隆一
- 学者
英語の歴史と歴史言語学を研究しています(プロフィールは https://bit.ly/3PnXWQ3 ).日々,慶應義塾大学文学部にて学生たちと「英語に関する素朴な疑問」について議論しつつ,著書,ブログ,Voicy ラジオ,YouTube などで情報を発信しています.毎日更新の「hellog~英語史ブログ」:http://user.keio.ac.jp/~rhotta/hellog/ , 毎日更新...7
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- 音韻論と音声学の違いがよく分からないのですが、具体例を用いて教えてください。音韻論と音声学の違いがよく分からないのですが、具体例を用いて教えてください。 日本語の「シ」をキーボードから打ち込むときに "si" と打つのが音韻論的発想で、"shi" と打つのが音声学的発想です。どちらが正しいか間違いかという問題ではなく、同じ「シ」を表示させるための2つの異なるアプローチだということです(ローマ字の種別としては、前者が訓令式ローマ字、後者がヘボン式ローマ字と呼ばれています)。 私たちは、日本語「サ」「ス」「セ」「ソ」を発音するときに同一の子音を用いています。しかし、「シ」だけは異なっています。もしここで「サ」「ス」「セ」「ソ」と同じ子音を用いるならば、「シ」ではなく「スィ」の発音となるでしょう。「シ」の子音は、むしろ「シャ」「シュ」「ショ」と共通しているのです。 このように「シ」の子音は「サ」「ス」「セ」「ソ」の子音と異なるのだ、ということをめざとく(耳ざとく)指摘するのが、音声学者であり音声認識装置です。彼らはこの違いに敏感なので、「シ」は "si" ではなく、音声学的正確さを期しているかのような "shi" などの別の方法で打ち込むことを推奨するかもしれません。 一方、普通の日本語母語話者は、確かに上記のように改めて説明されてみれば「サ」「ス」「セ」「ソ」と「シ」の子音は異なっていたのかと納得できますが、だからといって「シ」をサ行音の著しい例外という風にはとらえないでしょう。「シ」は多少発音が異なっていても、相変わらず「サ」「ス」「セ」「ソ」の仲間だ、という認識は捨てないだろうと思います。それは、この仲間たちが日本語では常に連動して振る舞っているからです。例えば、「話す」という5段活用の動詞を取り上げましょう。「話サない」「話シます」「話ス」「話スとき」「話セば」「話セ」「話ソう」のように活用するとき、2つめの活用形は「話シます」となり、決して他の活用形と同じ子音を使って「話スィます」とはなりません。 「音声学」としては、「話スィます」となっていてくれたほうが一貫してスッキリするのですが、日本語の実態としては「話シます」となっているのです。言い換えれば、日本語の「音韻論」としては、「シ」の子音は、本当は少し異なる発音だけれども、「サ」「ス」「セ」「ソ」の子音と事実上同じものであるとみなしておこう、という扱いになっているということです。音声学的には少々異なるけれども、日本語の都合としては同じものとしてまとめておいたほうが実際的にも理論的にも何かと便利だから、同じものと認めておこう。これが音韻論の発想です。 音韻論者、そして日常的に音韻論的発想で生きている普通の日本語母語話者の多くは、「シ」を表示させるために、3打必要な "shi" よりも、2打ですむ "si" を好むでしょう。日本語の特性を考慮した省エネの打ち方であり便利だからです。(個人の癖にもよりますね。ちなみに、私自身は9割方 "si" で打っていますが、たまに "shi" と打っているのに気づくことがあります。9割方音韻論者風ということです。) 以上をまとめましょう。音声学の扱う音は、音声認識装置が機械的に判断する音といってよく、特定の言語を考慮せずユニバーサルに記述されます。「シ」は "si" ではなく、あくまで "shi" と打ちたい、という立場です。 一方、音韻論の扱う音は、日本語なら日本語といった特定の言語において最適化された音のグルーピングを前提とします。「シ」はサ行の仲間だから "shi" ではなく "si" と打ちたい、という立場です。日本語母語話者に寄り添った記述ですね。 同じ日本語の「シ」でも、眺める立場によって扱いが異なるのです。同じ言語音を扱う分野でも、音韻論と音声学では、音に対する世界観が180度異なっていることが分かるのではないでしょうか。なお、発音記号を用いるとき、 /sa/ のようにスラッシュで囲むのが音韻論式で、[sa] のように角カッコで囲むのが音声学式です。中身は同じように見えても、カッコの種類によって世界観が転覆する仕組みなのでご注意を。 音韻論と音声学の違いについては、参考までに筆者の hellog~英語史ブログ より こちらの記事 も合わせてご覧ください。 (ちなみに、上記の「シ」の打ち方は、説明のための比喩です。音声学者であっても "si" と打つ方が多いのではないかと想像されます。尋ねてみたいところです。)
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- ドイツ語やフランス語は「女性名詞」と「男性名詞」という分類がありますが、どのような理屈で性が決まっているのでしょうか?ドイツ語やフランス語は「女性名詞」と「男性名詞」という分類がありますが、どのような理屈で性が決まっているのでしょうか? 理屈はないといってよいです。私は、文法的な性とは一種のフェチであると考えています。もう少し正確にいえば、言語における文法性とは人間の分類フェティシズムが言語上に表わされた1形態である、ということです。 私もドイツ語やフランス語を学んでいますので、今回の質問の意図はとてもよくわかります。私自身は文法性のない英語とその歴史を専門としているのですが、実は千年ほど前の古英語もゲルマン語派の仲間であるドイツ語と同様に、名詞に「男性」「女性」「中性」といった区別が存在していました。英語の場合、幸い、後の時代に文法性は消失しましたが。 ドイツ語やフランス語では、「男性名詞」には男性を表す語が多く含まれ、「女性名詞」には女性を表す語が多く含まれていることは確かです。実際、古英語でも似たような状況がありました。しかし、この傾向に当てはまらない語も多いからこそ、問題になるのですよね。 例えば、「太陽」はドイツ語では女性名詞 Sonne ですが、フランス語では男性名詞 soleil です。「月」は、逆にドイツ語では男性名詞 Mund ですが、フランス語では女性名詞 lune です。ナゼ?と問いたくなります。しかし、それぞれの母語話者に尋ねたところで、完全に満足のいく答えは返ってきません。基本的には意味論的な理屈はないということです。(ただし、特定の語尾をとる名詞は男性名詞であるとか女性名詞であるとか、形態論的に説明できることはしばしばあります。ですが、それ自体がナゼ?というさらなる疑問を生みます。) ドイツ語、フランス語、古英語をはじめとする印欧諸語の研究では、伝統的に名詞を2、3のグループに区分して、それぞれを「男性名詞」「女性名詞」「中性名詞」などと呼ぶのが習わしでした。しかし、この区分のラベルに含まれている「性」という概念・用語こそが、この現象の理解を妨げているのではないかと、私は考えています。この際、「性」に基づくラベルはきっぱりとやめてしまい、「グループAの名詞」「グループBの名詞」「グループCの名詞」とか、「甲」「乙」「丙」とか、「1」「2」「3」などの無機質なラベルを貼りつけておくほうが、かえって混乱が少ないのではないかと考えています。「男性」や「女性」などとラベルと貼ってしまったのが、混乱の元のように思われます。 人間には物事を分類したがる習性があります。しかし、その分類の仕方については個人ごとに異なりますし、典型的には集団ごとに、とりわけ言語共同体ごとに異なるものです。それぞれの分類の原理はその個人や集団が抱いていた人生観、世界観、宗教観などに基づくものと推測されますが、そのような当初の原理を現在になってから完全に復元することは不可能です。現在にまで文法性が受け継がれてきたとしても、かつての分類原理それ自体はすでに忘れ去られており、あくまで形骸化した形で、この語は男性名詞、あの語は女性名詞といった文法的な決まりとして存続しているにすぎなということです。 したがって、「今となっては」その分類に明確な理屈を認めることはできないってよいと思います。文法性とは一種の分類フェティシズムの帰結、すなわちその言語集団がもっていた物の見方のクセの現われ、くらいに理解しておくのが妥当ではないでしょうか。補足的に、私の書いた別の記事「#4039. 言語における性とはフェチである」もご一読ください。
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- 日本語ならSOV型、英語ならSVO型、アラビア語ならVSO型、など言語によって語順が異なりますが、これはどのような原因から生じる違いなのでしょうか?日本語ならSOV型、英語ならSVO型、アラビア語ならVSO型、など言語によって語順が異なりますが、これはどのような原因から生じる違いなのでしょうか? 「原因」はわかりません(私も知りたいです)が,類型論的,歴史的にみるとヒントはあります. 世界の諸言語の基本語順を眺めてみると,(様々な統計がありますが)日本語型の SOV が48%,英語型の SVO が41%,ウェールズ語型の VSO が8%,その他の型が3%となっています.意外と日本語型の SOV が最も多いのですね. 論理的には S, V, O の組み合わせとして6種類が可能であるなかで,トップ2の SOV と SVO だけで9割弱を占めるということは,言語の認知プロセス上「何か」があるということを示唆するように思われます.しかし,他の4種類のマイナーな語順が妨げられるわけではない,ということもまた非常に示唆的です. 地理的な分布や言語グループによる分布を見てみますと,特定の語順が,ある地域や語族に偏って分布しているということもあるにはあるのですが,周囲の言語と異なる語順がポツンと孤立して存在している場合もあり,なかなか一般的な傾向を述べることはできません. さらにおもしろいのは歴史的に見た場合です.英語は現在でこそ SVO 語順をもつ典型的な言語ですが,千年ほど前の古英語の時代には語順は現在よりもずっと自由で,当時より SVO もありましたが,同じくらいの頻度で SOV もありましたし,その他のすべての語順も可能でした.しかも,さらに遡ったゲルマン語の時代には,日本語と同じ SOV が基本語順だったと考えられています. つまり,言語においては,時間とともに基本語順,あるいは語順の自由度が変わり得るということです.これは驚きの事実ではないでしょうか. ご質問は「日本語ならSOV型,英語ならSVO型」などである原因は何か,ということでしたが,現在においてそのような分布になっているということにすぎず,考慮する時代を変えれば事情も異なり得るということが分かったかと思います.むしろ,歴史的に語順が変わってきた言語を念頭に,なぜ変わったのか,なぜ変わる必要があったのか,と問うてみると,議論はもっとエキサイティングになってくると思います. 参考までに筆者の hellog~英語史ブログ より こちらの記事 も合わせてご覧ください。
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- 0℃から1℃に上げるJと 99℃から100℃に上げるJって同じなんですか?違います.その違いは大きくはないにしても,同じではありません. 水の温度を 1 ℃上げるのに必要な熱量という表現がよく使われますが,歴史的には,1824年にフランスのニコラ・クレマンが「水 1 kg の温度を 0 °Cから 1 °Cに上げるのに必要な熱量」をカロリーと名付けたのが最初のようです.でもこれは今の 1 kcalです.実際,これが混乱の元になりました. 圧力も考慮した元々のカロリーの定義は「1 gの水の温度を標準大気圧下で 1 °C上げるのに必要な熱量」です.ところが,水の比熱(1 gあたりの熱容量)は温度に依存します.このため,何度の水を基準とするかで,カロリーは異なります.実際,いくつかのカロリーが存在していて,0度カロリー(0 → 1℃)は4.219 J,15度カロリー(14.5 → 15.5℃)は4.1855 Jといった具合です.
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- 言語が文化を作るのでしょうか?それとも文化が言語を作るのでしょうか?ご質問は、言語学や言語哲学の分野の最大の問題の1つですね。「サピア=ウォーフの仮説」や「言語相対論」などと呼ばれ、長らく議論されてきたテーマですが、いまだに明確な答えは出ていません。 「強い」言語相対論は、言語が思考(さらには文化)を規定すると主張します。言語がアッパーハンドを握っているという考え方ですね。一方、「弱い」言語相対論は、言語は思考(さらには文化)を反映するにすぎないと主張します。文化がアッパーハンドを握っているという考え方です。両者はガチンコで対立しており、今のところ、個々人の捉え方次第であるというレベルの回答にとどまっているように思われます。 「言語が文化を作るのか、文化が言語を作るのか」というご質問の前提には、時間的・因果的に一方が先で、他方が後だという発想があるように思われます。しかし、実はここには時間的・因果的な順序というものはないのではないかと、私は考えています。 よく「言語は文化の一部である」と言われますね。まったくその通りだと思っています。数学でいえば「偶数は整数の一部である」というのと同じようなものではないでしょうか。「偶数が整数を作るのか、整数が偶数を作るのか」という問いは、何とも答えにくいものです。時間的・因果的に、順序としてはどちらが先で、どちらが後なのか、と問うても答えは出ないように思われます。偶数がなければ整数もあり得ないですし、逆に整数がなければ偶数もあり得ません。 言語と文化の関係も、これと同じように部分と全体の関係なのではないかと考えています。一方が先で、他方が後ととらえられればスッキリするのに、という気持ちは分かるのですが、どうやら言語と文化はそのような関係にはないのではないか。それが、目下の私の考えです。 煮え切らない回答ではありますが、こんなところでいかがでしょうか。 この問題についてより詳しくは、私の hellog~英語史ブログよりこちらの記事セットをご覧ください。
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