小川 亮:憲法学者です。
まず前提として、憲法や法令は全てが曖昧というわけではなく、曖昧なものとそうでないものがあります。
例えば憲法52条「国会の常会は、毎年一回これを召集する。」は、毎年一回、国会の常会を開催する義務を定めているという点では極めて明確です。これに対して、憲法21条1項「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」が保障の対象としている「表現」とは何か、読んだだけではよくわからないという意味で曖昧です。なぜこのような差異があるのでしょうか。
それは、それぞれの条文がそれぞれ明確あるいは曖昧である点について、より良い統治を実現するために、その条文が果たすべき役割が異なっているからです。
憲法52条は、常会を年に一度開催する義務を課すことで、国会がその義務をきちんと果たすことを担保しようとしています。そのためには、国会にとって解釈の余地が現実的にないほどに明確に、開催の義務を定める必要があります。そのため、「毎年一回これを召集する。」という形で明確に義務を定めています。
憲法21条が保障しようとする「表現」についても同じようにすべきでしょうか。例えば、「表現」に該当するものを限定的にリストアップすることが考えられます。しかし、本条はそうしませんでした。「集会、結社及び言論、出版」を挙げた上で「その他一切」とすることで、あえて「表現」の内容を曖昧なものにしています。
その理由は、上記のリストアップ戦略だと、保障されるべき表現が取り逃がされてしまうかもしれないからです。
例えば、無声アニメの放送は「言論」つまり言葉による思想の発表ではありませんし、印刷物の「出版」でもありません。しかしながら、無声アニメを含めて、表現の自由な流通は、我々にとって極めて重要なものです。
上記は無声アニメの例でしたが、そのほかにも色々な例を挙げられるでしょう。さらにこの先、技術の発展によって、いまはないような表現方法が出現するかもしれません。
その場合でも、表現の自由の重要性に照らして、きちんとその表現を保障できるように、曖昧な書き方がなされているのです。この条文を読む立法者や裁判官にあえて解釈を委ねることで、この条文はより良くその役割を果たせると考えられるということですね。
ここまで説明すると、それではなぜ表現の自由の保障はそんなに大事なのか? それに照らせばどんな表現でも保障されるべきなのか? そういった疑問が湧いてくるかもしれません。
そのような疑問に、可能な限りの学問的な緻密さを以て応えようとするのが憲法学ということになります。そして憲法学者は、その憲法学の知見に基づいて立法者や裁判官の判断を批判することで、立法者や裁判官が好き勝手に判断することを防ごうとしています。重要な役割です。