「批評家が行う批評の存在意義について、クリエイタと批評家それぞれの立場から考えを聞きたい」ということですね。

私は本を書くことを仕事にしていますので、批評家の立場ではなく、クリエイタの立場からまずは考えてみます。といっても作品全般・批評全般について書くのは難しいので、私が書いている数学物語「数学ガール」シリーズに関して私が感じていることを中心にお話しします。

私の本に対する批評は、一般の方が書く感想や書評と、批評家というよりは数学関係者・教育関係者からの書評が多いと思います。好意的なものがほとんどですが、批判的なものもあります。どちらであっても私にとっては「批評は非常に有益なもの」だと感じます。

それはなぜかというと、ひとえに「作品を読者がどのように受け取ったか」に関する情報だからです。私は読者向けに物語を作っているわけですから、読者がどのように受け取るかは最大関心事の一つといえます。文章を書く上では《読者のことを考える》態度が本質的に重要だと考えています。

作者としては、読者はこのように受け取るだろうなという予想を立てて書いています。心の中に読者像を思い描き、それに向けて書くのです。でも現実にその読者が目の前にいるわけではありませんから、執筆時点では読者がどのように受け取るかはあくまで「仮説」に過ぎません。

そして、批評としてまとまっているものであれ、あるいは一つのツイートであれ、実際に読者がどのように受け取ったかは仮説検証の材料といえます。仮説と仮説検証。すなわち批評は、読者がいる世界のあり方を自分が理解するための科学的なプロセスの一部分をなしているといえます。

実験と観察による仮説検証(実験誤差を越えるほど仮説に反することが起きていないかを調べること)が科学において本質的に重要であるのと同じように、読者からの反応は執筆において本質的に重要であると私は思います。その意味で「批評は非常に有益なもの」だと思うのです。

もちろん、そこには大前提としてその批評が的確かどうかが関わってきます。しかし、その批評を行う人が実際に本を読み、本当にその批評のように考えているのであれば(つまり作品とは無関係な論を展開しているのでなければ)、批評はやはり重要であると思います。

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私はクリエイタの立場、と先ほど書きましたが、たまに私自身が他の本や作品の書評を書くこともあります。専門的な批評家ではありませんが、心がけていることはあります。それはもちろん、自分が書く書評を存在意義があるものとしたいからです。

そのときに心がけているのは、基本的にその本の広い意味での「良さ」を見出したいという態度です。といっても単純に良い・悪いと印象批評をしたいという意味ではありません。自分が書評を書くときには、読者にその本を読んでほしいというスタンスで書きたいのです。ですから、この本はこういう特徴がある、こういう面白さを感じる、このような捉え方をすればいっそう楽しめる、という表現方法をとりたいと思っています。

言い換えるなら、重箱の隅をつつくような書き方ではなく、全体としてどのような本であるかを述べる。その本の魅力を語る。実際に読んだ人でなければ書けないようなことを書く。そのような態度を心がけたいと思っています。

もしも悪いところしかない本だったらどうするのか、読者に読んでもらいたくない本はどうするのか、という疑問が浮かぶかもしれません。そのような本は、専門の批評家ならばいざしらず、私はわざわざ書評を書きたいとは思いません。

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批評に関して私が考えることは以上です。関連するかもしれない読み物を以下にリンクします。

◆批評の分析の話(定性的な評価を定量的な評価に変えようとする『ライアーゲーム』作者の試みのこと)

https://mm.hyuki.net/n/nc77140db0161

◆ネガティブなセルフブランディングの危険性(仕事の心がけ)

https://mm.hyuki.net/n/n60201a51ecd9

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