小川仁志:哲学では意識や意志については割と論じるにもかかわらず、意欲について論じることはあまりありません。欲望については論じますが、意欲と欲望は違うと思います。例えば朝起きようというのは、意欲の問題です。「~したい」という点では同じでも、この場合欲望という言葉を使うのには違和感があるでしょう。なぜなら、欲望はもっと秘めたるものであり、かつ存在しない状態のものを満たしたいという時に使うものだからです。一言でいうなら、同じように何かを求める気持ちだとしても、意欲よりも強度が高いのです。逆にいうと、意欲はそれほど強度が高いとはいえません。この差異が早い時間に起きられるかどうかに関係してきます。つまり、どうしても起きないといけない時は、欲望が作用しているのです。だから求める強度が高く、起きることができます。それに対して、できれば起きたいという程度だと、欲望にまでは達しておらず、単なる意欲の段階にとどまっています。だから求める強度が低く、起きることができないのです。では、何が欲望や意欲の強度に抵抗しようとするのか? それは生理的欲求です。生きていくために必要な基本的、本能的な欲求のことです。睡眠は人間の生存に欠かすこととのできない営みであり、そのために生理的欲求としてかなりの強度で私たちをコントロールしようとします。それに抗うためには、よほどの強い力が必要になります。その結果、欲求程度ではだめで、欲望が必要になるのです。デートや出世のためなら起きますよね。古代ローマの哲学者マルクス・アウレリウスは、『自省録』の中でまさにこのことについて論じています。使命感があれば朝起きられるだろうと。彼は皇帝であり、また何より欲望を抑えて生きることを称揚するストア派の哲学者なので、一見矛盾するようですが、実は彼のいう使命感は出世欲みたいなものであって、欲望にほかならないのではないでしょうか。(Read more)