福島真人:これを宗教側から見てみると、この二つの関係が結構複雑なのがわかります。まず前提として、宗教には大きく二つのタイプがあり、これを1)共同体の宗教、2)救済論、と分けます。前者はあるコミュニティが共有している民間信仰のようなもので、儀礼を中心に緩くまとまっているようなもの。後者は特定の教祖から出発して、組織化されたものです。前者は初詣のようなもの、後者ははっきりとした教義があるもので、教義としての仏教やキリスト教のようなものです。
実は1)と2)は歴史的にまじりあってますが、違いもあります。釈迦でもイエスでも、その初期の教えは、状況に応じた柔軟なもので、シンプルですが、時代がたつにつれ、教団も組織化されるとその教えそのものも体系化され、更にそこにある矛盾等もより精査されるようになります。例えば無我とか、空というのは厳密には何を意味するか、というのが典型ですが、教学の体系化のプロセスで起こるこうした抽象的な議論は、場合によっては哲学と形容される場合もあります。たとえば仏教哲学という言葉では、この部分の理論的議論をそう呼ぶ場合もあります。行としての仏教とは相対的に自律した形で、議論が発展する一例です。
西洋における神学と哲学は、複雑に絡み合っている一方、断絶もありますが、人によってはこの間に切断ではなく連続性を見る論者もいます。質問の意図とは逆になりますが、個人的にはカール・シュミットという政治学者が主張する、近代政治哲学の諸概念は、政治神学が世俗化したものだという、二つの間の連続性を強調する議論が面白いと思います。世俗化というモメントをのぞけば、つながっているというわけです。