哲学屋から考えると、主権という権力主体の正当性構築システムをどう設計しようとしているのかという問題だと思います。思想史を学んでいると、「正義」「主権」「自由」「権利」「平等」「公平」のいずれもがかなり危うい基盤の上に立っていると強く感じます。どの概念も脆くて弱い概念に見えます。まず確固たる定点(アルキメデスの支点)を見出すことが必要ですが、その場合、目の前に現れた敵とおいうのは、無条件に対応し、防御・攻撃しなければならないものですので、無条件に対応する必要があります。その体制は短期間に構築できないので、敵がいないときも、常に対応できるように組織を整備し、訓練しておく必要があります。それが軍隊です。国民主権と憲法に記されていますが、そのそも主権の概念と歴史的背景とその可能性の条件と現実的な実効性について考えていくと、民主主義というシステムによる主権概念が共同幻想化しがちであると思ってしまいます。ともかくも、国家が主権を主張できるためには、突然の攻撃に備えて対応が必要になります。敵が先なのか、防御・攻撃組織(原理)が先なのか、という問題は卵が先が鶏が先かと同じで、時間的な先行性を考えるか、制度設計で考えるか、超越論的な生成を考えるかで分かれてきます。現在の日本では、思考停止を意図的に行っているのかもしれません。防衛隊の本質をどのように捉えるのか、合憲違憲を論じるにしても、主権と民主主義、事実と権利、事実と事実を越えるもの(事実を構築するもの)との関係についての哲学的な異論が必要なのではと感じます。当初の問題にお答えするとなると、現在の日本に敵はいるのかどうかについて事実判断が大前提になるかと思います。敵がいないのに制度を作れば、攻撃本能を無駄に助長していることになります。事実認識を先立てるか、事実から離れて規範を先立てるのか、というメタ倫理学的な問題になると思います。確実に言えることは、物質・下部構造は惰性態なので、なかなか動かないので、あらかじめ準備していない場合には、事実に即時的に対応できないということです。つまり、認識の後の行動はいつも手遅れということでしょうね。成人病も同じですが。

2023/02/26Posted
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