小川仁志:フランスの哲学ヴラジーミル・ジャンケレヴィッチが、『死とはなにか』の中で安楽死について語っています。それは自殺とは異なり、他者、とりわけ医師によってもたらされる死だというのです。そして医師は、最後の最後まで治療をあきらめてはいけないといっています。なぜなら、「死んでいないひとは生きている、最後の一秒まで」だからだそうです。ここからもわかるように、彼は安楽死を、肉体が滅びる、あるいはその機能が停止することに対する抗いの不可能性としてとらえているように思われます。これは何もジャンケレヴィッチに限った話ではありません。誰もがそうとらえているのです。だから基本的には、安楽死の要件として肉体的苦痛が求められています。ただ、その要件を撤廃したカナダの例や、例外的に精神疾患にも安楽死を認めたベルギーの事例などがあります。それでもやはり多くの国が原則として肉体的苦痛を前提としているのは否めないでしょう。ここには人間の肉体を主とし、精神を従とするいわば「肉体中心主義」ともいうべき医学界のヒエラルキーが影響しているように思えてなりません。そしてそのヒエラルキーは、必然的に私たちの生の観念にも影響を及ぼします。肉体の病はわかりやすく、それゆえに重要で、精神の病はわかりにくいがゆえに軽視されてしまうといった風潮です。よく「病は気から」といわれます。私自身、医者から何度もこの言葉を聞いたことがあります。一般にこれは、すべての肉体の病は精神の病に起因するということだと思われています。でも本当は、精神の問題など大したものではないから、気にさえしなければ病気にはならないというニュアンスで使われているのです。個人的には精神疾患は肉体の疾患と同じくらい重要で、深刻だと感じています。したがって、安楽死を認めるかどうかは別にして、少なくともそうした肉体中心主義の発想を変えていく必要があるように思えてなりません。