佐藤愛:哲学史において大切なご質問ですね。ただ確かに質問者様のおっしゃる通り歴史的にかなり広がりのある問題なので、視点をしぼって考えてみたいと思います。
20世紀フランスの哲学者であるジル・ドゥルーズによるアリストテレスの「現実態」「可能態」解釈についてご紹介したいと思います。論を先取りしますとドゥルーズは、アリストテレスの哲学と後世の数学や物理学が接続「しそうな」部分について論じています。この点がおそらく質問者様の問題意識に近いのではないかと推測しご紹介しようと考えました。
(ただし一点だけ注意があります。20世紀後半、思想家たちが数学や物理学を不適切に引用しているのではないかとする厳しい批判がありました(ソーカル事件)。この件は無視してはならない教訓となっております。ですがあまりに萎縮しては議論が不活発になってしまいますので、他の分野への尊敬の念を忘れないようにしながら、相互触発的な議論が起こっていくことを望みつつ以下を書きます。)
まずアリストテレスの「可能態」と「現実態」はそれぞれ英語に直しますと、「可能態」=ディナミス=力=dynamics、「現実態」=エネルゲイア=働き(act)のなかにある=actualityとなります。つまり「現実態は、エネルギーと語源的に関連がある」と考えると確かに混乱しますが、「働きのなかにあるもの」や「働きつつあるもの」と変換すると、「可能態」との違いが見えてくるかと思います。
これを土台としてドゥルーズの思想をご紹介します。『差異と反復』という著作においてドゥルーズは、次のようにアリストテレスの哲学を解釈しました。可能態(英語dynamics)/現実態(英語actuality)というペアを、1.
実在的(リアル)なもの/可能的(ポシブル)なもの、2.
現実的(アクチュアル)なもの/潜在的(ヴァーチャル)なものという2つのペアから解釈してみよう、と。(注:ちなみにポテンシャルという言葉はちょっと難しいのですがここではヴァーチャルと同じ意味だと考えてください。)
アリストテレスの考え方だとたとえば種が木になる場合、木になった後(現実態となった後)から振り返れば種のなかには可能態としての木が含まれていたと考えることができます。これらの関係は時間的に直線で結ばれています。
ドゥルーズは、この直線的な関係性をさらにうねらせます。まず「ポシブルなもの」は「リアルなものになるよう準備されているけど未だ存在しない」ものであるとします。(上の木と種の関係にあたります。)では「ヴァーチャルなもの」はどうかというと、平たくいうと「別の世界ですでに存在している」もので、これが私たちの現実と交差すると、「アクチュアルなもの」になります。
この「ヴァーチャル」概念の面白さが大きなインパクトを与えました。アリストテレスの木と種の直線的な関係と比較すれば、よりうねっている(複雑化、多化している)イメージです。
最後に、こうしたドゥルーズの「ヴァーチャル」概念の面白さと情報化社会やインターネット空間を繋げようとする参考文献として、フランスの哲学者ピエール・レヴィの『ヴァーチャルとは何か?』をあげておきます。(翻訳あります。)