佐藤愛:たとえばA, B,
Cという三つの宗教があったとして、それらがすべて「同じものを信仰している」から「異教という考えは起こらないのではないか」という質問者さんの問いは、宗教の「認知」(認識、理解)にかかわる問いではなく、哲学的問いであるように思いました。なぜなら、A,
B, Cという宗教の内部からではなく、その外の視点からA, B, Cを眺め(認知、認識、理解し)ようとしているからです。
質問者さんが持っている疑問に近いと思われる議論が哲学にもあります。たとえば「同じものを信仰している」を、「神の自然的認識の可能性の問題」におきかえてみれば、さまざまな議論に接続しえます。質問者さんがどれくらい「そうだ」と思っていただけるかは分かりませんが、私自身が読んで面白かったものとして、山内志朗先生(Mondにもいらっしゃいますね)の『極限の思想
ドゥルーズ
内在性の形而上学』という本をあげておこうと思います。この本では中世の神学と現代の哲学が紐づけられて議論されます。(2022年の現代を生きていると、「神」や「宗教」について質問者さんのように真っ直ぐに議論することは勇気のあることのように思います。ですが、まったく同じ疑問ではないかもしれませんが、おそらく近いところから考えようと挑戦することは哲学においては可能だと思います。)
ここでは、質問者さんのおっしゃる「同じもの」を「一義性」と読み替えてみたいと思います。読み進めるうちに「同じもの」や「一義性」が、実は「異なるもの」(質問者さんの言葉で言えば「異教」)と深くかかわっているということが見えてきます。たとえば、次の言葉を引用します。「非同一性の潜在性であることが同一性の本質なのだ」(kindle版71頁)。
だから、「異教徒や異教はどのように認知されるのでしょうか?」という質問者さんの問いについては、「ただ異なるものとして認知されることによってのみ同じものに繋がる」と答えたいと思います。
もちろん、こうした考えがさまざまな人にとって当たり前のものではないし面白いものでもないのかもしれませんが私にとっては質問者さんの疑問からは哲学的面白さを感じました。