高校数学マスターもとbot:数学的センスがあるかは別として、同じ疑問を考えてきた者として回答したいと思います。 結論から言うと、数学的センスの『源泉』はその人のモチベーションにあると思います。つまり、自分が何を価値あるものと感じて知りたいか、です。それをふつうは「美しい」だったり、「神秘的」だったり、「面白い」と表現するのだと思います。したがって、まずは自然や数学や科学などの様々な物事(実体験や文物や人物)に『触れること』が、それを感じる心を育てることになると思います。 例えば、歴代の数学者はどんなことをモチベーションにしているかなとみてみると結構、分かりやすいかと思います。 ・ピタゴラスは、「万物は数である」(だから数を知りたい)というような教義をもつ教団を指導して数学研究をしていたそうです。 ・デカルトは、「(学問の)真理の探究」をモチベーションにしていました。その中に、自然の真理も含まれています。 ・ニュートンも似た系譜ですので、「自然哲学の数学的諸原理」という著作があるくらいなので自然の真理に興味を持ったのだと思います。 ・ガウスは、「数学は科学の女王であり、数論は数学の女王である。」や「数論の法則は目に見えて現れるものだが、その証明は宇宙の闇に深く横たわっている。」という言葉を残しています。 ・ラマヌジャンは、インドの神様が舌の上に数式を置いて行ってくれるそうで、神様の考えを知ることが彼のモチベーションだったのではないかと思います。 ・岡潔は、「情緒」が大切と言います。彼の情緒とは自然を美しいと素直に感じる心、に近いのではないかなと思います。「スミレはただスミレのように咲けばよい」という名言があります。 各国によってそれぞれ文化的な差異があると思いませんか?洋の東西を問わず、宗教的な感情から学問や文化が発展するのはよくあることで、そのような傾向を持つ天才はたくさんいます。たとえば、ソクラテスもそうですね。 ただ、ご承知のとおり現代では宗教的なモチベーションを持たない天才たちの方が多いと思いますが、それぞれの「価値ある何か」を知りたいというモチベーションの熱さは何も変わりありません。 ちなみに、西洋のギリシャ文化圏やキリスト教文化圏では「真理の探究」というのは、営々と続く宗教や学問のモチベーションだと思います。一方で、日本人にとってはそこまで明示的なキーワードではなく、岡潔の「情緒」(自然を美しいと素直に感じる心)の方が響くような気もします。それぞれの国、個々人の個性を大切にすると良いのではないかと思いますが、ある程度の段階で様々な学問の歴史や背景に触れることも大切だと思います。 あと最後に、自分が面白いと思うことと、皆が面白いと思うことあるいは現在すぐに評価されることには違いがあることには注意が必要です。後者は、現在の皆が(難しいけれど)すぐに理解できて面白いと感じられることだからです。例えば、デカルトもガウスもそこら辺をわきまえながら発表した気がします。ラマヌジャンやガロアのような異才は無意識・意図的にかは別としてそのようなことはしません。しかし、いずれも数学的センスのある方は、自らの興味・モチベーションを第一に大切にしています。(Read more)