Hidezumi Inoue:可能性はあり今もそういうことは行われていますが、脱法性は「結果」だと思います。 ーーーー 例えば、人々が無秩序の殺しあうことはいけないこととされていますよね。ところが主権国家体制ではルールに則って殺し合いをすることは違法とはされてきませんでした。ルールに則って殺し合いをすることを戦争と言っており、このための取り決めを「戦時国際法」と言ってます。 戦前の日本の新聞はこぞって軍部の中国進出を応援していました。対岸の火事であり国民を高揚させる効果の方が大きかったことになります。ただ、次第に軍部は戦争をコントロールできなくなり国民経済に大きな傷を残しました。 国際社会はこうした戦争を肯定すれば世界が滅茶苦茶になってしまうと考え、戦争そのものを否定してしまいました。このためかつて「合法」だった戦争は「現在ではたいていが違法」ということになっています。 ただ、戦争をしたいという欲求はなくなりません。日本人はアメリカという勝ち組に乗ればきっと「中国に勝利できる」と考えており日米同盟の強化に賛成しています。しかし背景には防衛増税という支出が伴いさらに台湾情勢への巻き込まれ不安を抱えることにもなりそうです。さらに台湾情勢が現在のウクライナのようなことになれば、国民は出口のない負担を抱えることになるでしょう。アメリカ合衆国が早期に台湾有事を解決できる保証はありません。ウクライナの例を見ても明らかです。 ーーーー いずれにせよ、戦争は毒ではありますが国民を熱狂させる作用もあります。毒性が強ければ強いほど「薬としての効果も高い」わけです。 この「薬の効果」だけを抽出できないのかと考える人が出てきます。この国同士の争いを「殺し合いなしで」やればいいわけですよね。これがスポーツです。この発想は極めてヨーロッパ的で、現在ではサッカー(多くの国ではフットボールと呼ばれる)とオリンピックが有名です。そもそも人は争うものなのだから、それを否定するのではなく管理しようというわけです。 管理され弱毒化された国家間競争は経済競争に置いてゆかれた人たちにかりそめの一体感を与えるという意味で「祝賀資本主義」という批判的な言い方をされる場合があります。ただこの祝賀という言い方には「薬としての効果も高いのだろうな」と感じさせる含みがあります。 集団の争いや国家間の競い合いには犯罪を誘発しかねない側面と社会的な一体感を醸成するという効用の両側面があるといえるでしょう。オリンピックのような「祝賀」の提供は弱毒化され管理された戦争を与えるという意味では社会や国家に期待されている役割だと言えます。ただ国家はこれを破綻しない程度にコントロールしなければなりません。IOCやFIFAには根強い汚職疑惑があり、実際にJOCの理事経験者が逮捕されたりもしています。さらにモロッコチームが勝ち進むとベルギーやフランスでは「すわ暴動」という事態も起きました。社会が競争を管理するのはなかなか難しく境界の設定もまた困難です。 現在の社会で違法とされている行為もルール枠を設ければ合法的に扱えるようになるのかという質問ですが、こういうことは日常行われており商業的な価値も持っています。商業的な価値があるということは何か魅力があるということです。 ではそれを「脱法性」の観点から見ることは適切なのでしょうか。 カイヨワは1958年に「遊びと人間」の中で遊びの四要素として「競争」「ものまね」「運だめし」「めまい」をあげています。ご指摘の点は「競争」にあたります。競争が激化するとコントロールが難しくなり社会が混乱することがあります。それを抑えるために社会や国家が規制するために作られたのが法律ということになるでしょう。つまり法律(脱法性)は「結果」なのです。 おそらく人々は脱法性を求めているわけではなく「集団で競争したい」という欲求を抱えており、その衝動は平穏な社会秩序を破壊するほど強力なのでしょう。「遊び」の中には社会が許容した範囲に弱毒化された毒である競争を混ぜ込んだものがあります。アルコールも強すぎれば毒ですがある程度抑えられていれば「百薬の長」などといわれます。遊びに関してはホイジンガも「ホモ・ルーデンス」という著作で研究しています。 まとめます。もちろん脱法性に着目するのが間違いとは言えないのですが、「遊び」というカテゴリーを研究した上で、コントロールされているはずの遊びがどのような社会的逸脱をもたらすのかについて考えた方が整理はしやすいと思います。ホイジンガやカイヨワのような先行研究が多く出ており取り組みやすいからです。 根本にあるのは事実はおそらく * 人間には社会的に管理された動物という側面がある ということなのではないでしょうか。(Read more)