小川仁志:正しさというのは多義的な概念です。たとえば、功利主義者にいわせると、できるだけ多くの快楽が得られるのが正しいということになります。この場合の正しさとは多くの人の満足を指すことになるでしょう。言い換えると、正しさとは結果なのです。そうすると、自分の正しさを貫いた結果、周囲の多くの人たちを傷つけてしまったのは正しくないという結論になります。一般には皆こんなふうに考えます。だからこそ悩まれているのだと思います。他方で、カント倫理学からすると、正しいことは無条件に貫くべきであり、その場合の正しさとは結果ではなく動機を意味します。自分の内心に背かないことが正しいことなのです。なぜなら、自分の内心に背くのは、人間としての自分の尊厳を傷つける行為だからです。カントが究極的に守ろうとしたのは、そんな人間の尊厳にほかなりません。この考え方からすると、自分の正しさを貫くというのは、たとえその結果周囲の人たちが傷ついたとしても、正しかったということになり得ます。たとえば、あなたが殺人鬼に追われている友人をかくまっているような場合に、殺人鬼に対して正直に友人の居場所を答えるのは正しいということになるのです。少なくともカントはそういっています。だから、違うことを違うと正直にいうのも許される場合があるのです。(Read more)
Nobumitsu Hiruta:回答: 質問者様が「悩んでい」ると告白されていらっしゃるのをみると、ご自身は許していらっしゃらないのではないかと拝察します。 質問者様は「誰」の許しを望んでいらっしゃいますか。 世間や親御さんが許しているとしても、ご自身が許されていらっしゃらないように見受けられるところから、考えられる可能性は2つあります。 1. 質問者様にとっての「超越者」の許し →ご自身の悩みを許すものとして容易に想像できるのが、自身の倫理観や価値観を超える絶対的存在(と直観するもの)に従うことであろうと思います。この可能性はありうるでしょうが、そうともいえない感触を私は抱いています。 だって、そのような存在は(既存あるいは新興)宗教においておおむね普遍的です。そうであるにも関わらず、特定宗教に帰依している様子はありません。 そうだとすると、もうひとつの可能性が考えられます。 2. ご自身の「正しさ」を担保する「力(強さ)」 違うことを違うと言う「正しさ」は質問者様にとっての至上の価値を持つものでしょうか。 いえ、そうとは思えません。「正しさ」が至上であるなら悩みは生まれません、至上でないが故に悩むのでしょう。 執着の(と十分いえると思いますが、その)対象としての「正しさ」が決して至上ではない―このねじれの関係はどのように醸成されたのでしょうか。 …なんて勿体つけたいい方をしましたが、このねじれの関係=矛盾は誰の裡にも(少なくとも私には)内在するものです。 ご自身の裡なる矛盾を許してはいかがですか。 唯一絶対の価値によって質問者様の「正しさ」が担保されたとしても、裡より滲み出てくる「何か(良心といってもよいし社会的欲望といってもよいでしょう)」との間で矛盾は生じ、またさらなる担保を求めるのではないかと懸念しています。 「いかなる場合でも」との表現から、質問者様が既に何重にもループを経て苦しまれていることが推察されます。 ご自身の裡なる矛盾を許してはいかがですか。 生まれ出てくる矛盾を「力(強さ)」で抑え込むことをちょっと休んでみて、矛盾を「柔(靭やかさ)」で受け容れてみることを提案します。 急にというのは難しいかもしれませんし、今と異なる苦しみを伴うかもしれません。そうであったとしても、ご自身を受け容れる一歩を踏んでいただきたいと強く思います。 −−− 「違うことを違うと言うのはいかなる場合でも許されるのでしょうか」 →ご自身を受け容れられさえすれば、質問者様ご自身が許してくれます。そこをスタート地点としてご自身の道を進めば、いつか「いかなる場合でも」許すことができると信じます。 ご参考になれば幸いです。(Read more)