山下澄人:どう書いてもわかられてしまうだろうということをいつも考えます。わかられて、たとえばそれを別の言葉に置き換えられたとき、わたしまでもがそれを読んで「まあそうだよな」と思ってしまう。そのことに注意しようとしてはいます。ほんとうなら、ほんとうならといういい方もどうかと思うけど、いちいち言葉を発明するのがすじでしょう。「赤」とされるものがあるとして、しかしそれはあなたが見ている赤とは違う。たぶん違うというかおそらく違う。だからわたしに見えている「それ」を命名しなければならない。しかしそうするとわたし以外はそれは、読めない。読めるように聞き取り理解出来るよう「それ」を「赤」とするから交流されるとわたしたちは信じている。でもそれは嘘なんじゃないか。交流なんて不可能なのじゃないか。それは互いに閉じているというのではなく、不可能を前提にして奏で合う。そういう思いがあるから面倒でも小説をやる。理想は書き合いたい。わかられたいとかわかられたくないとかを超えて膨大なそれらががなり合う。なのでわかるようにもわかられなくも出来ない、というのがわたしの反応です。