イナダシュンスケ:鹿児島には鶏の入った具沢山味噌汁があります。「さつま汁」という名称です。ちなみにこれにこの名前が付いているのはちょっと不思議です。なぜなら薩摩の人間が郷土料理にさつまの名を用いることはちょっと考えられないからです。さつま揚げはあくまで県外での呼称です。これは薩摩に限った話ではなく、筑前の人は筑前煮なんて言わないのと同じです。
さらに最近は、名称に引っ張られて、さつま汁にサツマイモを入れるアレンジをよく目にします。これは本来はあり得ない。ますます似非郷土食っぽさが増します。
さてこのさつま汁、もちろんおいしいです。でもおいしいだけでは外食の定番にはなりません。提供者側にメリットが必要です。ではそのメリットがあるかどうかで言うと、ちゃんとあります。豚汁と同じオペレーションで作れて、鶏肉は豚肉より安い。しかも豚よりさらにダシが出ます。もっとも豚汁のように極限まで肉を減らすことは難しいので、コスト的には多少高く付くケースもありそうですが。
おいしくて、店側にもメリットがある。つまり最適解。本来なら定番化してもおかしくありません。でも実際はそうなっていない。これは「機を逃した」という理由しかなさそうな気がします。
かつて鶏肉は、豚より牛より高い食材でした。鹿児島は生産地であり、農家は自家用に飼ってもいましたから、(それがさつま汁という名称だったかはともかく)郷土料理として成立しました。
しかし他所ではそういうわけにもいきません。その間に豚汁はみるみる普及しました。鶏汁は完全に出遅れたのです。
さらに、多くの場合、豚汁は「注文するもの」ではなく「付いてくるもの」です。鶏汁だと認識して注文する分にはいいですが、勝手に出てきたものが一見豚汁なのにそうでなかったら面食らいます。わざわざそこで冒険するメリットもありません。
「この店は豚汁じゃなくて鶏汁だなんて気が利いてるな!」
と思ってくれる人もなかなか居なさそうです。おいしいけど、おいしけりゃいいってもんじゃないのです。
そういえば一時期、吉野家が鶏汁を「けんちん汁」の名称で出していたことがありましたが、結局すぐに豚汁に変わりました。やはり定番は強し。
ライバル豚汁があまりにも強すぎる、結局これが鶏汁の不運でしょうね。