橋本 省二:ヒッグス粒子の発見からもう10年以上になるんですね。素粒子の標準模型のなかで見つかっていなかった最後の粒子の発見が話題になりました。しかしそこからまた新たな謎が持ち上がった。今日はその話をしてみたいと思います。
欧州原子核研究機構(CERN)の巨大な加速器LHCは、今でも世界最高エネルギーを生み出す加速器です。光速近くまで加速した陽子同士を逆方向に周回させ、測定器の真ん中で衝突させる。そこから出てくるさまざまな素粒子を測定するわけです。そのなかにヒッグス粒子が見つかった。それは同時に、その質量が精密に測定されたということでもあります。それ以前にもヒッグス粒子の質量は量子補正を調べることである程度わかっていたのですが、それがようやくきちんと決まったわけです。
ヒッグス粒子は素粒子に質量をあたえると言われます。正しくは粒子の背後にあるヒッグス場の性質です。実は、ヒッグス粒子自身の質量も同じしくみで作られます。真空にうまったヒッグス場から質量をもらっている。ですので、ヒッグス粒子の質量がわかったということは、ヒッグス場の自分自身に対する結合定数がわかったというのと同じことになります。ヒッグス場の自己結合。これこそが、真空の性質を決める鍵になるものです。
ヒッグス場の自己結合がわかったおかげで、ヒッグス場のポテンシャル・エネルギーの全体像がわかりました。ヒッグス場の値が現在の真空での値よりも何桁も大きかった場合のエネルギーを、量子補正をふくめて計算することができるのです。(これには「くりこみ群」という手法を使います。)そこでわかったのは、ヒッグス場の値が現在よりも10桁以上大きいところにもう一つ安定な場所があるということ。しかも、現在の真空のもつエネルギーより小さくなる。これは非常に微妙な話で、ヒッグス場の自己結合とその他の粒子(トップクォークなど)の質量が絶妙に調整されているかのように見える。少しでもずれると、もう一つの安定な場所は存在しなくなるか、逆に全体が不安定、つまり真空のエネルギーが負の無限大になってしまうことすら起こりうる。我々はこういう破滅的な場合におちいるギリギリに踏みとどまっているようなのです。現在の宇宙のパラメターは、なぜかそんなふうに調整されているわけです。
ともあれ、ヒッグス場がもつもう一つの安定な場所。本来はここが真空になるはずでした。そうなっていたとしたら、すべての粒子はめちゃくちゃ重くなっていたはずです。現在の真空は、ほんとうの真空ではなく偽の真空なのかもしれない。途中には(エネルギー的に)高い高い壁がありますが、いつか真空がほんとうの真空にうつる可能性はゼロではありません。量子的なトンネル効果です。ただし、その確率は非常に小さいので、宇宙年齢の何桁も長い時間を待たないといけない。現実的にはありえないですが、可能性はある。それが答えだと思われます。
この新しい真空が再びインフレーションを起こすか。それはまた別の問題です。そもそも現在の真空でヒッグス場のもつエネルギーは大きな負の値になり、観測でわかっているダークエネルギーの値とは全然違っています。ここはまだ大きな謎なんだと思います。