山下澄人:ここでいう「純文学」とは何だ。わたしはいわゆるあなたのいう「純文学」と呼ばれるものの書き手、らしいが、わたしはその「純文学」が何かを知らない。知る気もない。なぜないか。そんなものはないからだ。「ありますよ」という人がいるのは知っている。何かしら便宜上、呼び名がなければ話がややこしくなるからその人たちは枠を作る。ややこしくすればいいじゃないかとわたしは考えるが、物事を「ややこしくない」方へ向かわせようとするのが多数だ。そして結局ややこしくなり歪み合うのが世間だ。それはご存じでしょ。そのことに愕然とするのは当事者として途方に暮れたときだけなのもご存じでしょ。定義不能は面倒だから、統治の邪魔だから、適当に誰か「時代の顔」が「リーダー」が雑な定義をして「なるほど」とばかが乗る。乗ったばかが集まり世間になる。世間は空気になり、曖昧なもの、定義不能なもの、ばかじゃないもの、ばかから抜け出しそうなもの、いや、本物のばか、を捕まえては「馬鹿だと知らない二度と戻れないばかになれ」とじんわり圧力をかけて骨抜きにしようとする。しかし抜けない骨がある。抜けない骨こそ希望です。本の一冊ぐらい自分で探しましょう。