少し長くなりますが。旧約聖書にヨブ記というのがあります。悪いことなど何もしていないのに悪魔のささやきによって神に酷いことをされるヨブという人の話です。誰よりも神を信じていたのに散々な目にあわされたヨブはとうとう神にキレます。

「滅びよ、わたしが生まれた日」

キレたヨブに友人というのが何人もあらわれて「お前それは違う、神が間違うはずがない、間違えているのだとしたらそれはお前だ」というような薄っぺらな正論をいいます。「大変だけどもっと大変な人はいるよ、仕方がないじゃないか、病気になってよかったこともあるでしょ」とかいうあれ。しかしヨブは偉いから「うるせぇ黙れ」とそんなことは聞き入れません。この話、挙句は神が出てきて「おいこらお前、わたしに文句があるようだがわたしは神だぞ」と圧力をかけてきます。ヨブは引き下がります。神が姿をあらわしてまでいうのなら引き下がるしかない。あきらめた。信心をやめますというのでもない。ここはおそらく重要です。神を神としたままわかりました悔い改めますと突然ヨブは引くのです。神よりずっとヨブが世界の仕組みを悟ったように。悟ったのでしょう。神はヨブを慰め施しをします。付け足しのように羊何頭、らくだ何頭、金やら綺麗な娘やらだとか書いてあります。具体的に書く必要があったのでしょうがわたしにはつまらない蛇足に思えます。津波の後でいくら穏やかな顔を見せても前のようには海を見ることはできませんが穏やかな海はやはり素敵ですというようなことか。二千年以上前に人間はこの話を書いた、そしてそれを多くの人間が読んできた。神というものを何より信心しようとした人々がです。ヨブ記には酷い仕打ちとしての試しの後の慰めと施しが書いてあるだけです。試した理由は悪魔のささやき。ばかみたいな理由、要するに理由がない。まさにわたしたちが生きている世界のように思えます。ちなみにわたしは何信者でもありません。がんばりましょう。

2020/12/27Posted
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