山下さんの小説が好きでいつも読んでます。 現在私は線維筋痛症、慢性疲労症候群という全身の痛みと怠さの病気を10年患い、仕事ができない状態です。この病気は難病指定もされてないので公的な支援もなく経済的にかなり厳しくなってきました。自分一人で家事ができないため実家暮らしですが、役所には実家に暮らしている限り生活保護は受けられないと言われました。 長年仕事もしておらず、親も高齢のため今後のことがとても心配です。 体調、経済面ともに先行きが見えず真っ暗なところを歩いてるように感じてしまいます。 こんな私にこれからどう生きるか何かアドバイスをいただけたら嬉しいです
回答(1件)
- 山下澄人
- 作家
作家、劇作家、演出家、俳優 。高校卒業後富良野塾に入塾し俳優として活動をはじめる。1996年より劇団FICTIONを主宰し作、演出、出演を担当する。2011年より小説を発表。 2012年『緑のさる』で第34回野間文藝新人賞、2017年 『しんせかい』で第156回芥川賞を受賞。そのほかの著書に『小鳥、来る』『月の客』などがある。 写真撮影:神ノ川智早19
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