あなたのおっしゃる「熱狂」と同じかどうかはわかりませんが、自分の生活を見てみると以前よりも物事に対する関心が少なくなっているというのは感じます。年を経るごとに関心が少なくなっていくし、あまりこだわらなくなってきます。「それはどちらでもいいよ」という感覚です。
以前はそのような自分の感覚の変化に焦りというか、良くないことだという印象を持っていたのですが、最近はあまりそうではありません。これもまた大切な変化であり、自分の姿の一つなのだと思うようになっていますね。
どうしてそのように思うかというと「昔は○○のように感じていたけれど、いまはそうは感じていない。それは良くないので○○のように感じたい」と思うのは、とても大切な「現在」を見逃す危険性があると思うからです。
刺激を求めて新しいことに挑戦し、昔のような熱狂を取り戻したい!というのは、一見すると新しいものを求めているように見えますけれど、実は「昔の自分を取り戻そう」とし続けているわけで、それは過去にとらわれているといえなくはありません。
そして過去の自分にとらわれていると、現在の私をきちんと取り扱うことがおろそかになり、若いときの熱狂が薄れてきた後に見えてくる、現在の等身大の自分を理解する妨げになるように思うのです。
あなたは詩を書くのを「たのしい!」と思えているのはすてきなことですね。
私は三十年ほど本を書き続けていますが、現在でも本を書くことは好きですし、楽しいと思います。仕事をしているときは時間や空間を忘れて、自分がいることすら忘れて書いていることがよくあります。はっと気がついて「私は書き物をしていたんだ!」と改めて周りを見回すような気持ちになることもよくあります。
でもその本を書いているときの感覚は、若いときと今とではずいぶん変わってきているかもしれませんね。若いときは深く考えるというよりも、どんどん先に進みたいという気持ちが先に立って書いていたように思います。でも最近は、何度も何度も読み返して少しずつ良いものにしていく感覚を楽しんでいます。
もしも「昔のようにどんどん先に進むように書かなければ」と思い込んでしまうと、現在の私がどのように書き物に取り組むかという感覚を見逃してしまうのではないかと思います。そして、昔の自分を取り戻そうとしても、それは基本的に無茶な話なので、焦燥感や無力感に振り回される結果になるでしょう。
私は生きている存在で、生きているのだから変化するのは不思議なことではありません。過去の自分を保持し続けることに労力を割くのではなく、現在の自分をよく理解してていねいに遇してあげる方がいいのではないかな、と思っているのです。
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◆『老いに備える知的生活』と《小さな音叉》
https://mm.hyuki.net/n/n83bde24ecbf0
◆老いに備える知的生活(結城浩ミニ文庫)
https://mm.hyuki.net/n/nc024927d233c
◆テキストエディタと高齢社会(文章を書く心がけ)