白井さゆり:日本銀行の場合は1997年に成立した新日銀法(98年施行)をご覧いただければわかりますが、金融政策や銀行券の発行から銀行に対する考査、国の事務まで細かく日本銀行の業務が規定されています。自由に業務をしているわけではなく法律にもとづいて実施しています。ですので法律の解釈やさまざまな判断を下した場合に規定の改定なども沢山ありますので、常に法学部の出身の方の知識が必要になります。 ただし日本銀行は金融政策運営に必要な日本・世界経済の分析や金融政策の効果やマクロ経済モデルに予測など経済学や統計学の知識が必要な分野も沢山ありますので経済学の知識のある方も採用しています。ただ経済学部出身でなくても、大学時代に勉強されたり、海外に留学したり、業務に携わりながらたくさん独自に勉強されているかたも多いと思いますので、法学部出身だから経済政策の判断ができないということはまったくありません。現実の金融政策判断は、たんに理論や統計分析だけでではとらえきれない膨大な経済・金融・市場関連の情報をみていますし、経済学以外の観点から多角的にもみていかなければなりません。また、財務省は予算や税制を始めやはり法律・規制に詳しい人が必要ですので、法学部出身の方が多いのだと思います。(Read more)
小田部正明 (Masaaki Kotabe):私もこの現実に関してはあまり考えてこともありませんが、確かに面白い問題です。財務省は政府の役所ですが、日本銀行(日銀)は政府から独立した組織で政府の1部ではありません。とは言え、日銀は、日本銀行法等の法令に基づき、政府の資金である国庫金に関する事務、つまり、税金や社会保険料の受入れ、年金や公共事業費の支払い等を行っているばかりか、国債の発行、支払い等も扱い、さらに外国為替市場での為替介入事務等、政府の事務を取り扱っているので、現実には政府の機関と切り離して考える事はできません。つまり、財務省も日銀(俗に政府の銀行とも言われる)も確固とした国の法的制約の中で業務を営まなければなりません。そういう訳で、いづれも法的な知識が先行する組織です。 そう考えると、経営学の組織論で貴方の質問に容易に答えられます。組織にはライン機能(Line function)とスタッフ機能(Staff function)があります。ライン機能とは組織の運営の為に直接の意思決定をしていくメンバー(例えば、会社の社長とか製品開発部長等)を意味し、スタッフ機能とはその意思決定をしていくメンバーが良い意思決定をしていくための補佐の仕事をするメンバー(例えば、会社のマーケティング研究員、会計士等)を意味します。法的制限の中で運営されなければならない財務省にしても日銀にしても、法律上がりのメンバーがその法的環境・制限のなかで組織運営上の最終的なラインとしての意思決定をしなければならないのでしょう。そのように考えると、経済学上がりのメンバーは経済学に基づいた政策をスタッフとして提示し、ライン機能を持つ法律上がりのメンバーがその情報に基づいて法律という制限の中で最適な業務上の意思決定をしなければならない環境なのでしょう。(Read more)
中林真幸:財務省や日本銀行に限らず,日本国全体がシステムとして動いており,何かを実現しようとすれば,そのシステムで読み込めるコードで記述しなくてはなりません。加えて,国や地方公共団体の場合,税金を預かって動いているシステムなので,国民に対して統一的な説明のできるコードでなくてはなりません。このコードを読み,書く技能が実定法学で,これは,出身が経済学部であろうと文学部であろうと理学部であろうと,行政官になったならば身につけなくてはなりません。きちんとコードを書けない人が法案を作っても,その法案は国会に出てくる前に,枢密院,内閣法制局に突き返されてしまいます。大日本帝国ならば枢密院書記官が,日本国になってからは内閣法制局が,勅令,政令,法律のひとつひとつについて互換性チェックをしていますので,法学を知らない人が勅令案や政令案や法案を書いても,帝国議会,国会にたどりつけません。官僚で出世している人々は必ずしも法学部出身とは限りませんが,法学部出身ではない人々も,法学の自学自習をされたはずです。ということで,政府であれ日本銀行であれ,支える側の職員に法学は必須です。また,そのための自学自習が可能であることも,法学の素晴らしいところです。目の肥えた司法試験受験生たちに鍛えられてきただけあって,「基本書」と呼ばれる法学の定番教科書は高い水準の自己完結性を実現しています。そして,意外と重要なことですが,そうした良い教科書を書ける前提として,法学者は国語が得意です。彼,彼女たちは,漢字が多くて,一見,読みにくそうに見えるものの,きちんと読めばきちんと分かる文章を書く高い技能を持っています。これはつまり,RやPhythonの英語がそうであるように,ソースコードとしての,きちんと読めば誰にでも分かる日本語を書けるように訓練されているということだと思います。 さて,指導者を補佐する職員には法学的素養が必須であることを前提として,質問者が言及されている指導者については,着想を法令案に起こす作業は部下に委ねることができるので,多様な背景を持つ人々の活躍が期待できると思います。もちろん,その場合にも,指導者にできることは,その指導者が何を学んできたことと無縁ではありません。過去半世紀のほどの間にこの国の形を変えてきた指導者と言えば,橋本龍太郎元首相(慶大法)と小泉純一郎元首相(慶大経)でしょうか。大蔵省から検査部門を金融庁として切り出してしまえば政府と銀行の癒着を解体することができる,とか,郵貯から財政投融資への預託をやめれば野放図な公共事業を止められる,といった橋本行革の発想は,高度に法技術的なツボを突いていて,いかにも法学部的であるように思います。この時点で橋本,小泉両内閣の行財政改革の技術的な論点は出尽くしていて,これらは橋本元首相の業績です。さすがは,橋本「(総理ではなく)課長補佐」と陰口を叩かれるほどに,位人臣を極めてなお学び続けた元首相だけのことはあると思います。 一方,橋本元首相が摘出した目的を完遂する政治的な着地点の見つけ方と,それを実現する腕力は小泉元首相ならではですね。もしかすると,法律などの制約条件を取り敢えず所与として傍らに置いておいて,均衡のありそうなところを嗅ぎつけて,そこに向かってぐいぐいと計算しながら邁進する経済学部の教育が役に立ったかもしれません。 実際,経済理論家のなかには,計算を始める前に,細部の情報を集めて,その情報から直観的に,この辺りに均衡があるかな,と当たりをつけてから計算に着手し,実際に均衡を見つけて,論文を書く小泉元首相のような人々もいます。この作業を繰り返すと,経済が次に辿り着くかもしれない均衡を当てる勘が鍛えられるでしょう。欧米で経済学者が中央銀行総裁に起用される場合は,分析的な技能そのものというよりも(法案作成と同様で,方向性を決めた後のモデル構築と試算は経済学部出身の部下に任せますから),そういう勘を期待されているのではないかと思います。 植田和男先生については,個人的に,忘れがたい思い出があります。東京大学経済学部の助手試験を受けた際,試験官のなかに植田先生も入っていらっしゃいました。合格させていただいて助手室に出勤するようになったある日,エレベータで植田先生と乗り合わせました。植田先生は「お!」という顔をされ,私に人差し指を向けると,「君っ,面接良かったーっ」と叫ぶように仰いました。狭いエレベータのなかで,大御所に指差されて大声で誉められた若輩の私は,畏れ多くて何も応えることができず,時代劇の下級武士が平伏している時に出しそうな「はっ」とかいうような唸り声を絞り出せただけであったと記憶しています。 経済史を研究する私が助手面接で話したのは,1世紀半前の長野県諏訪郡の製糸業で起こった生産組織の革新です。そんな大昔のミクロな話を,マクロ金融の大御所に真剣に聴いていただけるとは,当時は,浅はかにも思い至りませんでした。植田先生は,このように,ずっと昔の細かい歴史的事実からも,現在の経済を理解する手がかりを探られる方です。また,当時はまだ紙版しかなかったピンクのFinancial Timesを持ち歩いておられて,ちょっと時間ができると読んでいらっしゃっていました。ああ,俺も視野を広く持とう,と思い,真似してFTを購読することにしました。きっと,古今東西の情報の入力から,次の均衡を探られるのでしょうね。質問者と共に,私も,植田先生が素晴らしい仕事をされることを期待しています。(Read more)