山下さん、はじめまして。

『小鳥、来る』僕とても大好きで、ずっとずっと読んでいたいと思って読んでいました。たまに読みながら寝てしまうことがあったのですが、そうやって寝てしまうと、なぜだか僕は夢の中で子供で、小学五年生で、友達の鳥羽くんと土屋くんと高校の裏手にあるホワイトベースみたいな団地に住んでる保坂くんちで、でたらめに電話をかけて、いたずら電話して遊んでいたときに戻っていました。それからタイムマシンみたいな小説だと思ってなんどもなんども読みながら眠れないかなと思っています。すごく眠くなる小説だとかではありません!!ありがとうございますとおもっています。

(すみません、ここからが質問です...)僕はいつも取り止めのない話ばかりしてしまって、妻に「あなた、小説でも書いてみたら」と薦められて、去年あたりから書き始めました。

元々小説を読むのは大好きだったのですが、あんなふうに全く書けなくて無理だなと思いながら、なぜだか妻の最初の言葉に勇気づけられて、変な運動するみたいになるべく毎日一文ずつでもかならず書こうと思って、ちょこちょこ書いています。

その結果、小説らしからぬものが書き上がったのですが、読み返したら、すごく恥ずかしいんです。文章も下手で、わかりやすくしたいと何度も書き直すのですが、直せば直したでなんだか他人が書いたもののように感じて、どうしたものかと思って、元に戻したりします。その繰り返しです。

せっかく書いたので誰かに見せたいという気持ちもあれど、恥ずかしい気持ちが優ってしまって、誰かに見せたり、どこかに出したりしたことがありません。いやみせたいというよりは、でも手放して、終わりにしたいというか、強制的な完成みたいなものをのぞんでいる自分もいます。私はどうすれば良いんだろう。これは質問なのだろうか。すみません。

わたしはいつも何かを書いたり作ったりしているとき、その最中、それが演劇なら一緒に作る仲間になるわけですが、その人たちとゲラゲラ笑ったり、「おもしろいよなあ」といい合ったりする時間がいちばん楽しい。本番なんかなきゃいいのにといつも思っていた。本番があるからその時間はあるのですが「肝」は本番にない。小説なら身近な誰か、この人ならきっとおもしろがると思える、思い込める、誰かに読んでもらって、「おもしろい」といわれたらそれでいい。だからその外に読まれているということにいまだにびっくりする。実感する世界が非常にせまいのです。人間に認識可能なのはそれくらいだろと思っている。せまいからこそ厳密なのです。何が楽しかったのかをわからなくならないでください。勇気づけられたと思えたときこそがもっとも楽しい時間だったのです。出来上がりや完成なんていうのはどうでもいい。そんなことは誰もいわないし、ああだこうだもっともらしいことをいうけど。自分で日数やら枚数で決めたらいいんです。ミャーミャーいうのをやめたら「これで終わりだな」とわかるはずです自分で。

1 year ago

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