堀田隆一:ラテン語のアルファベット(以後ラテン・アルファベットと呼びます)が世界に広まった理由は,近代以降,植民地帝国を展開してきた欧米列強が,このアルファベットを使用していたからです.欧米列強に「力」があったからこそ,世界中にそのシェアを広めることができたということです.
世界各地の土着の文字がすべてラテン・アルファベットに置き換えられたわけではありませんが,土着の文字と並行的にラテン・アルファベットが用いられるケースも少なくありません(日本語のローマ字書き,中国語のピンイン,キリル文字のラテン・アルファベット置き換え等).また,無文字言語に文字体系を付与する場合にも,ラテン・アルファベットをそのまま用いる,あるいは少なくともラテン・アルファベットに近似した文字体系を考案するのが一般的です.世界におけるラテン・アルファベットの存在感が大きくなってきたのは,このような近代の欧米による植民地帝国主義を通じてのことでした.
アルファベットは単音文字として古今東西の文字体系のなかで最も合理的・経済的であるという議論があります.表意文字である漢字や音節文字である仮名のような文字体系に比べ,少ない種類の文字でいかなる言語をも書き表わすことができ,すぐれているという洞察です.確かに,単音文字であるアルファベットの発明(原初のアルファベットは紀元前2千年紀前半の北西セム系文字とされます)が文字史上の偉大な発明だったことは間違いありません.どの言語にも柔軟に対応でき,習得も比較的易しいとなれば,広まるのも自然と考えられるかもしれません.
しかし,そのようなアルファベットの本質的な特徴が「ラテン語のアルファベットが世界標準になった」直接的な理由であるとは,私は考えていません.というのは,ラテン・アルファベットはアルファベット(単音文字)体系の1例にすぎないからです.古今東西で数十を超える種類のアルファベットが使用されてきました.フェニキア文字,ギリシア文字,キリル文字,ルーン文字,アラム文字,ヒンディー文字,チベット文字,シリア文字,モンゴル文字,満州文字,アラビア文字など多数あります.いずれもアルファベットですから,多かれ少なかれ先のアルファベットとして本質的な特徴をもっています.しかし,ルーン文字やモンゴル文字は世界に広まりませんでした.世界に広まったのはラテン・アルファベットでした.アルファベットの本質的な特徴を持ち出しても,この差を説明することはできません.
アルファベット文字体系の中でも取り立ててラテン・アルファベットが世界に広まったのは,冒頭で述べたように,すでに長らくラテン・アルファベットを使用してきた歴史をもつ欧米列強が,近代以降に圧倒的な力を獲得したからです.ここでいう力とは,軍事的,政治的,経済的,技術的,文化的等を含めた広く社会的な力のことです.欧米列強はその力をもって世界各地の人々にラテン・アルファベットを押しつけたこともあれば,教育を通じて緩やかに習得させたこともありましたし,あるいは人々が進んで受け入れたということもありました.いずれにせよラテン・アルファベットの世界化の背景には,欧米列強の力があったのです.
ただし,このようにしてラテン・アルファベットがいったん世界に広まっていけば,その利便性,すなわち先のアルファベットの本質的な特徴も気づかれる機会が増えるでしょう.合理性・経済性という観点からいえば,(ラテン)アルファベットは漢字や仮名よりもすぐれているという議論は,それ自体は誤っていません.しかし「(ラテン)アルファベットは文字体系としてすぐれているから世界に広まった」という議論があるとすれば,それは後付けの議論だと考えます.時系列に沿っていえば,まず先に欧米列強の「力」によってラテン・アルファベットが世界に広まった,そしてその後に(ラテン)アルファベットの文字体系としての相対的優位性が喧伝されている,という順序です.後者が原因で,前者がその結果であるというのは,議論としては転倒していると考えます.