私は今教師をしていて、子どもたちを複数の担任で見ています。教師として働くのは今年15年以上振りです。子どもたちはとても可愛いです。ですが、一緒に組んでいる先生について、概ね子どもの見方や考え方は私と似ていて初めは「この先生良い!」と思っていたのですが、少し気になるところが出てきました。ここは今叱るべき、今はこうすべき!ということを思ってしまうのです、、その先生はクラスの主任なのですが、他の若い先生を育てようとしないので、私がその若い先生を褒めたり、若い先生の力が至らないところはフォローに入ったりしています。そんな方と今後も一緒に子どもたちを見ていくためには、どうしたらいいでしょうか?
回答(1件)
- 山下澄人
- 作家
作家、劇作家、演出家、俳優 。高校卒業後富良野塾に入塾し俳優として活動をはじめる。1996年より劇団FICTIONを主宰し作、演出、出演を担当する。2011年より小説を発表。 2012年『緑のさる』で第34回野間文藝新人賞、2017年 『しんせかい』で第156回芥川賞を受賞。そのほかの著書に『小鳥、来る』『月の客』などがある。 写真撮影:神ノ川智早14
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- 山下さんの小説が好きでいつも読んでます。 現在私は線維筋痛症、慢性疲労症候群という全身の痛みと怠さの病気を10年患い、仕事ができない状態です。この病気は難病指定もされてないので公的な支援もなく経済的にかなり厳しくなってきました。自分一人で家事ができないため実家暮らしですが、役所には実家に暮らしている限り生活保護は受けられないと言われました。 長年仕事もしておらず、親も高齢のため今後のことがとても心配です。 体調、経済面ともに先行きが見えず真っ暗なところを歩いてるように感じてしまいます。 こんな私にこれからどう生きるか何かアドバイスをいただけたら嬉しいです少し長くなりますが。旧約聖書にヨブ記というのがあります。悪いことなど何もしていないのに悪魔のささやきによって神に酷いことをされるヨブという人の話です。誰よりも神を信じていたのに散々な目にあわされたヨブはとうとう神にキレます。 「滅びよ、わたしが生まれた日」 キレたヨブに友人というのが何人もあらわれて「お前それは違う、神が間違うはずがない、間違えているのだとしたらそれはお前だ」というような薄っぺらな正論をいいます。「大変だけどもっと大変な人はいるよ、仕方がないじゃないか、病気になってよかったこともあるでしょ」とかいうあれ。しかしヨブは偉いから「うるせぇ黙れ」とそんなことは聞き入れません。この話、挙句は神が出てきて「おいこらお前、わたしに文句があるようだがわたしは神だぞ」と圧力をかけてきます。ヨブは引き下がります。神が姿をあらわしてまでいうのなら引き下がるしかない。あきらめた。信心をやめますというのでもない。ここはおそらく重要です。神を神としたままわかりました悔い改めますと突然ヨブは引くのです。神よりずっとヨブが世界の仕組みを悟ったように。悟ったのでしょう。神はヨブを慰め施しをします。付け足しのように羊何頭、らくだ何頭、金やら綺麗な娘やらだとか書いてあります。具体的に書く必要があったのでしょうがわたしにはつまらない蛇足に思えます。津波の後でいくら穏やかな顔を見せても前のようには海を見ることはできませんが穏やかな海はやはり素敵ですというようなことか。二千年以上前に人間はこの話を書いた、そしてそれを多くの人間が読んできた。神というものを何より信心しようとした人々がです。ヨブ記には酷い仕打ちとしての試しの後の慰めと施しが書いてあるだけです。試した理由は悪魔のささやき。ばかみたいな理由、要するに理由がない。まさにわたしたちが生きている世界のように思えます。ちなみにわたしは何信者でもありません。がんばりましょう。
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- 今の仕事をやりたいと思ってこの会社に入ったのに、全く違う仕事をしなければならない事をどう折り合いをつければいいでしょうか。もっともらしい話はどれも悲観的で「人類は滅ぶ」という話になりがちなのと同じで、嫌な仕事でも、嫌な仕事だからこそ、そもそも仕事というのは嫌なものなのだ甘えたことをいってんじゃねぇ的な考えがあります。そこからはみ出るものは破滅する、露頭に迷う、この生きるか死ぬかの世界の中で生きていけない、ゆえに死ぬ、というのです。しかしあれは「嘘」です。システムが生み出した壮大なる物語です。実際は何がどうなってそうなるのかどうにかなるものです。どうどうにかなるのだ!とまっとう論者には論破されてしまいますがどれだけ正論を振りかざされても「わかりませんがなぜかどうにかなる」とわたしはいいます。人間という宇宙を舐めてはいけない。なので嫌ならやめていいと思います。やめてから「さてどうするかな」と考えたらいいんです。わたしたちにはどうにもすることができないものだらけです世界は。いつ隕石が落ちて来るかわからないし、突然地震が来て地面が割れるかもしれない。しかしそれ以外のカードはあなたが握っているのです。だめになるまでだめにはならない。死ぬまで死なないということです。楽しく生きてください。
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- aerobicsなどの接頭辞aero-を、「エアロ」と発音するのはなぜでしょうか?たいへんおもしろい質問です.分かっているつもりでいて,しかし触れないようにしてきた問題を投げかけられたという感じのする問いで,爽快でした.ネスレの気泡の入ったチョコ Aero も発音は「エアロ」ですね. 英語には aerobics, aerodynamic, aerosol など「空気」 (air) を意味する連結辞 aero- を含む専門的な用語がいくつかありますが,ローマ字通りには 「アエロ」のはずです.実際,フランス語などでは aérobic, aérodynamique, aérosol と綴り,発音も予想通りに「アエロ~」となります.ところが,英語では,なんと文字が逆転したような「エアロ」になるというわけです.確かに不思議ですね. まず,なぜ <aero> という綴字がストレートに「アエロ」に対応しないのかについて解説します.一言でいえば,英語では「アエ」という音連鎖が許されないからです(身も蓋もないですが).なぜ特定の音連鎖が許されたり許されなかったりするか,というのはなかなかの難問です.例えば,日本語では「ん」は正規の音素なのに,なぜ語頭では現われてはいけないのかというのと同じ類いの問題です.このような問いに対しては,音韻論では「分布」なのだ,といって逃げるのが普通です・・・. では,<aero> が「アエロ」に対応するのはダメということは,仕方ない,そういうことか,と認めておくとして,よりによってなぜ綴字がひっくり返ったような発音である「エアロ」 /ˈɛəroʊ/ になってしまうのでしょうか.これもどうやら歴史的経緯があり複雑なようなのですが,ざっくりと次のように回答しておきましょう. <ae> という綴字をもつ英単語は,ほぼすべてギリシア語からの(あるいはそこからラテン語を経由した)借用語です.ルネサンス期に,ギリシア語やラテン語のような古典語に傾倒したイギリスの知識人たちが,<ae> を含む単語を大量に借用しました.当時,英語には <ae> の綴字をもつ単語などなかったために,ある意味で <ae> はインテリ語のマーカーとなりました. ですが,この <ae> という綴字は,あくまでギリシア語やラテン語の書物からもってきたものであり,英語としてどのように発音すべきかということが問題となります.既存の <ai> という綴字が /eː/ という発音に対応していたことを参照したのではないかと思われますが,<ae> も /eː/ と発音されるようになり,やがて「大母音推移」という音変化の結果として,<ae> は /iː/ に対応することになりました.この対応関係は,現代英語の encyclopaedia, mediaeval, Aesop, Caesar などに観察されます. 一方,<ae> の後に <r> が続く今回の質問のケース,つまり <aer> については,/ɛər/ という発音に対応することになりました(r が後続する場合には母音に対して不規則なことがよく起こるものです,例えば dear は「ディアー」なのに bear は「ベアー」となるなど).aeration, aerobic, aerodrome, aeronaut, aerosol などです.この連結辞 aero- は,語源的にも意味的にも独立語 air /ɛər/ と関連するため, 互いの発音が結びつけられただろうことは容易に想像できます.ちなみに「飛行機」を意味する airplane は,イギリス英語では aeroplane の語形・綴字のほうが一般的です. 以上をまとめましょう.<ae(r)> の綴字は見慣れないこともあり,出会ったときには文字通りに「アエ」と読みたくなるかもしれませんが,英語の発音規則として「アエ」はあり得ないということが第1のポイントです.第2に,ではなぜ <ae(r)> を「エア」と読むかといえば,語源・意味的に関連する air /ɛər/ からの類推が効いているのだろうと考えます.aero- 語はもともと発音つきで存在していた英語本来語ではなく,ギリシア語という高尚な言語の書物から近代期に借用した単語ということで,綴字に合わせて後づけで発音を決めた,というのが本当のところだと思います. 関連して,回答者のブログより「#4701. スペリング <ae> に対応する音価」をお読みください.
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- 何かを生み出す仕事において生み手の個性というのはとても大切なものなのではと感じています。 その前提が成り立つ場合のご質問になってしまいますが、例えば山下さんの作家業においてそのオリジナリティは他者との差別化を狙って設計されたものなのでしょうか。あるいは個性とはあくまで結果であって、個性のある方が生き残っていくだけなのでしょうか。単純な好奇心でしかないのですがお考えを教えてください。いきなり前提をぶち壊してしまいますがわたしは「個性」などというものを信用していません。どれもたいして違いがない。あるのは「好み」です。なので差別化やオリジナリティなどという浅ましいことを考えることがない。好きにやっているだけです。ただ好きにやる場合重要なのは他人の評価をあてにしないということです。わたしは自分もあてにしませんが他人もあてにしていない。お前の好みに合わせる気はないということです。好きにやれ、好きにやる、という感じです。
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- 小説、演劇などには絶対的な正解がないと思います。しかし最終的には1つの文章、1つの演出に絞り込まないといけないかと素人ながら思うのですが、こういう難しい判断はどのようにされていますか? 私はただのサラリーマンなのですが、ある程度データで判断を絞り込むことができる業務もあれば、あまり絞り込むことはできずある種“第六感”みたいな感覚で判断する業務もあります。後者の場合、判断をするのが怖いです。参考にさせていただきたく、質問させていただきました。「かん」は精密科学です。あまりにも計算速度が速く情報が膨大すぎて簡単に、というか到底言葉にできないだけです。ただ「かん」が発動するのは当てるためにではありません、「かん」はあたりはずれなど眼中にありません、大袈裟にいうと「かん」はわたしを生存させるためにのみ働きます、だから「わたし」が当てて欲しいとか当てたいだとか思うものとは違うものを選んだりします、それをわたしは(わたしたちは)「外れた」などというのですが、長い目で見てみると「かん」の判断はやはり絶対に間違っていないのです。だからわたしは「かん」にだけ任せます。わたしは「わたし」の考えや判断を一切信用していません。
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